、ただ、波の音のみにて。
壱唱 ふくろうの啼《な》く夜かたわの子うまれけり
さいさきよいぞ。いま、壱唱、としたためて、まさしく、奇蹟《きせき》あらわれました。ニッケル小型五銭だまくらいの豆スポット。朝日が、いまだあけ放たぬ雨戸の、釘穴をくぐって、ちょうど、この、「壱唱」の壱の字へ、さっと光を投入したのだ。奇蹟だ、奇蹟だ、握手、ばんざい。ばからしく、あさまし、くだらぬ騒ぎやめて、神聖の仕事はじめよ。はいと答えて、みち問えば、女、唖《おし》なり、枯野原。問うだけ損だよ、めくらめっぽう、私はひとり行くのだと悪ふざけして居る間に、ゼラチンそろそろかたまって、何か一定の方向を指示して呉れないものでもない、心もとなき杖をたよりに、一人二役の掛け合いまんざい、孤立の身の上なれども仲間大勢のふりして、且《かつ》うたい、且かたり、むずかしき一篇のロマンスの周囲を、およそ百日のあいだ、ぬき足、さし足、カナリヤねらう黒き瞳《ひとみ》濡れたる小猫の様にて、そろりそろり、めぐりあるいて、およろこび下さい、ようやく昨夜、語る糸口見つけましたぞ、お茶を一ぱい飲んで、それから、ゆっくり。
お話のまえに、一こと、おことわりして置きたいこと、ほかではございませぬ、ここには、私すべてを出し切って居ませんよ、という、これはまた、おそろしく陳腐の言葉、けれどもこれは作者の親切、正覚坊《しょうがくぼう》の甲羅《こうら》ほどの氷のかけら、どんぶりこ、どんぶりこ、のどかに海上ながれて来ると、老練の船長すかさずさっと進路をかえて、危い、危い、突き当ったら沈没、氷山の水中にかくれてある部分は、そうですねえ、あのまんじゅう笠くらいのものにしたところで、水の中の根は、河馬五匹の体積、充分にございます。きみもまた、まこと、われを知りたく思ったときには、わが家たずねてわれと一週間ともに起居して、眠るまも与えぬわがそよぐ舌の盛観にしたしく接し、そうして、太宰の能力、それも十分の一くらい、やっと、さぐり当てることができるのじゃないか、と此の言葉の、ほぼ正確なることを信じてよろしい。一語はっするということは、すなわち、二、三千の言葉を逃がす冷酷むざんの損失を意味して居ります。そうして、以上の、われにも似合わぬ、幼き強がりの言葉の数々、すべてこれ、わが肉体滅亡の予告であること信じてよろしい。二度とふたたびお逢いでき
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