しても、あのおかたのことは、お書きになれないお苦しさ、判るけれど、他にも苦しい女、ございます。」
だから、はじめから、ことわってある。名は言われぬ、恋をした素ぶりさえ見せられぬ、くるしく、――口くさっても言われぬ、――不義、と。
ああ、あざむけ、あざむけ。ひとたびあざむけば、君、死ぬるとも告白、ざんげしてはいけない。胸の秘密、絶対ひみつのまま、狡智《こうち》の極致、誰にも打ちあけずに、そのまま息を静かにひきとれ。やがて冥途《めいど》とやらへ行って、いや、そこでもだまって微笑《ほほえ》むのみ、誰にも言うな。あざむけ、あざむけ、巧みにあざむけ、神より上手にあざむけ、あざむけ。
もののみごとにだまされ給え。人、七度の七十倍ほどだまされてからでなければ、まことの愛の微光をさぐり当て得ぬ。嘘、わが身に快く、充分に美しく、たのしく、しずかに差し出された美事のデッシュ、果実山盛り、だまって受けとり、たのしみ給え。世の中、すこしでも賑やかなほうがいいのだ。知っているだろう? 田舎芝居、菜の花畑に鏡立て、よしずで囲った楽屋の太夫に、十円の御祝儀、こころみに差し出せば、たちまち表の花道に墨くろぐろと貼り出されて曰《いわ》く、一金壱千円也、書生様より。景気を創る。はからずも、わが国古来の文学精神、ここにいた。
あの言葉、この言葉、三十にちかき雑記帳それぞれにくしゃくしゃ満載、みんな君への楽しきお土産《みやげ》、けれども非運、関税のべら棒に高くて、あたら無数の宝物、お役所の、青ペンキで塗りつぶされたるトタン屋根の倉庫へ、どさんとほうり込まれて、ぴしゃんと錠《じょう》をおろされて、それっきり、以来、十箇月、桜の花吹雪より藪蚊《やぶか》を経て、しおから蜻蛉《とんぼ》、紅葉も散り、ひとびと黒いマント着て巷《ちまた》をうろつく師走にいたり、やっと金策成って、それも、三十にちかき荷物のうち、もっとも安直の、ものの数ならぬ小さい小さいバスケット一箇だけ、きらきら光る真鍮《しんちゅう》の、南京錠ぴちっとあけて、さて皆様の目のまえに飛び出したものは、おや、おや、これは慮外、百千の思念の小蟹、あるじあわてふためき、あれを追い、これを追い、一行書いては破り、一語書きかけては破り、しだいに悲しく、たそがれの部屋の隅にてペン握りしめたまんま、めそめそ泣いていたという。
底本:「太宰治全集2」ち
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