玉、私うまれてこのかた二十八年、あとにもさきにも、かの女事務員ひとり、他は、すべて、私と同じくらいの無心の善人でございました。いまのあの編輯人の無礼も、かれの全然無警戒のしからしめた外貌にすぎない。作家というものは、なんでもわかって、こちとらの苦しみすべて呑みこんでいるのだ、怒り給うことなし、ときめてしまって甘えて居る。可愛さあまって憎さが百倍とは、このことであろうか、などと一文の金もなき謂わば賤民、人相よく、ひとりで呟いてひとりで微笑んでいた。私は、この世の愚昧《ぐまい》の民を愛する。

     九唱 ナタアリヤさん、キスしましょう

 その翌、翌日、まえの日の賤民とはちがって、これは又、帝国ホテルの食堂、本麻の蚊がすり、ろの袴《はかま》、白|足袋《たび》の、まごうかたなき、太宰治。ふといロイド眼鏡かけて、ことし流行とやらのオリンピックブルウのドレス着ている浅田夫人、幼な名は、萱野《かやの》さん。ふたり涼しげに談笑しながら食事していた。きのう、私、さいごの手段、相手もあろうに、萱野さんから、二百円、いや、拾円紙幣二十枚お借りした。資生堂二階のボックスでお逢いして、私が二百円と言いもおわらぬうちに、三度も四度もあわてて首肯《うなず》き、さっと他の話にさらっていった。二時間のち、同じところで二十枚のばいきんだらけのくしゃくしゃ汚き紙片、できるだけむぞうさに手交して、宅のサラリイ前借りしたのよ、と小さく笑った萱野さんの、にっくき嘘、そんな端々にまで、私の燃ゆる瞳の火を消そうと警戒の伏線、私はそれを悲しく思った。その夜、花の都、ネオンの森とやらの、その樹樹のまわりを、くぐり抜け、すり抜け、むなしくぐるぐる駈けずりまわった。使えないのだ。どうしても、そのお金を使えないのだ。奴婢《ぬひ》の愛。女中部屋の縁《へり》のない赤ちゃけた畳、びんつけ油のにおい、竹の行李《こうり》の底から恥かしき三徳《さんとく》出して、一枚、二枚とくしゃくしゃの紙幣、わが目前にならべられて与えられたような気がして、夜明けと共に、電話した。思いがけぬ大金ころがりこんで、お金お返しできますから、と事務的の口調で言って、場所は、帝国ホテル、と附け加えた。華麗豪壮の、せめて、おわかれの場を創りあげたかった。
 その日、快晴、談笑の数刻の後、私はお金をとり出し、昨夜の二十枚よりは、新しい、別な二十枚であることを
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング