つれあひのひとの弱さが齒がゆかつたし、それへつけこむ葉藏の兄も兄だ、と相變らずの世間の話として聞いてゐたのである。
 飛騨はぶらぶら歩きだし、葉藏の枕元のはうへやつて來た。硝子戸に鼻先をくつつけるやうにして、曇天のしたの海を眺めた。
「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからぢやないよ。そんなことはないと思ふなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで歸つたさうだ。汽車に乘つてる姿が眼にちらつくよ。」
 小菅は、やつと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ。」
「美談だらう? いい話だらう?」飛騨は、くるつと小菅のはうへ顏をねぢむけた。氣嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きてゐるよろこびを感ずるのさ。」
 思ひ切つて、僕は顏を出す。さうでもしないと、僕はこのうへ書きつづけることができぬ。この小説は混亂だらけだ。僕自身がよろめいてゐる。葉藏をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する。僕は彼等の泥靴にとりすがつて、待て待てとわめく。ここらで陣容を立
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