んど致命的でさへあり得る。
「いいえ、なんでもないんです。」眞野は、かへつてはげますやうにして言つた。「この病棟には、重症患者がひとりもゐないのですし、それにきのふも、ろ號室のお母さまが私と廊下で逢つたとき、賑やかでいいとおつしやつて、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑はされてばかりゐるつて、さうおつしやつたわ。いいんですのよ。かまひません。」
「いや、」小菅はソフアから立ちあがつた。「よくないよ。僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言はないのだ。ここへ連れて來いよ。僕たちをそんなにきらひなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院してやる。」
 三人とも、このとつさの間に、本氣で退院の腹をきめた。殊にも葉藏は、自動車に乘つて海濱づたひに遁走して行くはればれしき四人のすがたをはるかに思つた。
 飛騨もソフアから立ちあがつて、笑ひながら言つた。「やらうか。みんなで婦長のところへ押しかけて行かうか。僕たちを叱るなんて、馬鹿だ。」
「退院しようよ。」小菅はドアをそつと蹴つた。「こんなけちな病院は、面白くないや。叱るのは構はないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考へてゐたにちがひないのさ。頭がわるくてブルジヨア臭いぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思つてゐるんだ。」
 言ひ終へて、またドアをまへよりすこし強く蹴つてやつた。それから、堪へかねたやうにして噴きだした。
 葉藏はベツドへどしんと音たてて寢ころがつた。「それぢや、僕なんかは、さしづめ色白な戀愛至上主義者といふやうなところだ。もう、いかん。」
 彼等は、この野蠻人の侮辱に、尚もはらわたの煮えくりかへる思ひをしてゐるのだが、さびしく思ひ直して、それをよい加減に茶化さうと試みる。彼等はいつもさうなのだ。
 けれども眞野は率直だつた。ドアのわきの壁に、兩腕をうしろへまはしてよりかかり、めくれあがつた上唇をことさらにきゆつと尖らせて言ふのであつた。
「さうなんでございますのよ。ずゐぶんですわ。ゆうべだつて、婦長室へ看護婦をおほぜいあつめて、歌留多なんかして大さわぎだつたくせに。」
「さうだ。十二時すぎまできやつきやつ言つてゐたよ。ちよつと馬鹿だな。」
 葉藏はさう呟きつつ、枕元に散らばつてある木炭紙をいちまい拾ひあげ、仰向に寢たままでそれへ落書をはじめた。
「ご自分がよくないことをしてゐるから、ひとのよいところがわからないんだわ。噂ですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですつて。」
「さうか。いいところがある。」小菅は大喜びであつた。彼等はひとの醜聞を美徳のやうに考へる。たのもしいと思ふのである。「勳章がめかけを持つたか。いいところがあるよ。」
「ほんたうに、みなさん、罪のないことをおつしやつては、お笑ひになつていらつしやるのに、判らないのかしら。お氣になさらず、うんとおさわぎになつたはうが、ようございますわ。かまひませんとも。けふ一日ですものねえ。ほんたうに誰にだつてお叱られになつたことのない、よい育ちのかたばかりなのに。」片手を顏へあてて急にひくく泣き出した。泣きながらドアをあけた。
 飛騨はひきとめて囁いた。「婦長のとこへ行つたつて駄目だよ。よし給へ。なんでもないぢやないか。」
 顏を兩手で覆つたまま、二三度つづけさまにうなづいて廊下へ出た。
「正義派だ。」眞野が去つてから、小菅はにやにや笑つてソフアへ坐つた。「泣き出しちやつた。自分の言葉に醉つてしまつたんだよ。ふだんは大人くさいことを言つてゐても、やつぱり女だな。」
「變つてるよ。」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまはつた。「はじめから僕、變つてると思つてゐたんだよ。をかしいなあ。泣いて飛び出さうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行つたんぢやないだらうな。」
「そんなことはないよ。」葉藏は平氣なおももちを裝つてさう答へ、落書した木炭紙を小菅のはうへ投げてやつた。
「婦長の肖像畫か。」小菅はげらげら笑ひこけた。
「どれどれ。」飛騨も立つたままで木炭紙を覗きこんだ。「女怪だね。けつさくだよ。これあ。似てゐるのか。」
「そつくりだ。いちど院長について、この病室へも來たことがあるんだ。うまいもんだなあ。鉛筆を貸せよ。」小菅は、葉藏から鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加へた。「これへかう角を生やすのだ。いよいよ似て來たな。婦長室のドアへ貼つてやらうか。」
「そとへ散歩に出てみようよ。」葉藏はベツドから降りて脊のびした。脊のびしながら、こつそり呟いてみた。「ポンチ畫の大家。」

 ポンチ畫の大家。そろそろ僕も厭きて來た。これは通俗小説でなからうか。ともすれば硬直したがる僕の神經に對しても、また、おそらくはおなじやうな諸君の神
前へ 次へ
全19ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング