つたら、私、言はなければよかつた。」
「い號室だ。」小菅はそつと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。い號室だ。君、少女のゐる部屋だよ。可愛さうに。」
「お騷ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話なんですよ。」
 葉藏は別なことを考へてゐた。園の幽靈を思つてゐたのである。美しい姿を胸に畫いてゐた。葉藏は、しばしばこのやうにあつさりしてゐる。彼等にとつて神といふ言葉は、間の拔けた人物に與へられる揶揄と好意のまじつたなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近してゐるからかも知れぬ。こんな工合ひに輕々しく所謂「神の問題」にふれるなら、きつと諸君は、淺薄とか安易とかいふ言葉でもつてきびしい非難をするであらう。ああ、許し給へ。どんなまづしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがつてゐるものだ。されば、言はう。彼こそ神に似てゐる。寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこつそり笑つて眺めてゐる智慧の女神のミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に。

 翌る日、朝から療養院がざわめいてゐた。雪が降つてゐたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松がいちやうに雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂濱にも、雪がうすく積つてゐた。降つたりやんだりしながら、雪は晝頃までつづいた。
 葉藏は、ベツドの上で腹這ひになり、雪の景色をスケツチしてゐた。木炭紙と鉛筆を眞野に買はせて、雪のまつたく降りやんだころから仕事にかかつたのである。
 病室は雪の反射であかるかつた。小菅はソフアに寢ころんで、雜誌を讀んでゐた。ときどき葉藏の畫を、首すぢのばして覗いた。藝術といふものに、ぼんやりした畏敬を感じてゐるのであつた。それは、葉藏ひとりに對する信頼から起つた感情である。小菅は幼いときから葉藏を見て知つてゐた。いつぷう變つてゐると思つてゐた。一緒に遊んでゐるうちに、葉藏のその變りかたをすべて頭のよさであると獨斷してしまつた。おしやれで嘘のうまい好色な、そして殘忍でさへあつた葉藏を、小菅は少年のころから好きだつたのである。殊に學生時代の葉藏が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるやうな瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがつて、觀賞の態度であつた。つまり利巧だつたのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがへして傍觀する。これが小菅の、葉藏や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであらう。小菅が藝術をいささかでも畏敬してゐるとすれば、それは、れいの青い外套を着て身じまひをただすのとそつくり同じ意味であつて、この白晝つづきの人生になにか期待の對象を感じたい心からである。葉藏ほどの男が、汗みどろになつて作り出すのであるから、きつとただならぬものにちがひない。ただ輕くさう思つてゐる。その點、やはり葉藏を信頼してゐるのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅が葉藏のスケツチを盜み見しながらも、がつかりしてゐる。木炭紙に畫かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。
 小菅は斷念して、雜誌の講談に讀みふけつた。病室は、ひつそりしてゐた。
 眞野は、ゐなかつた。洗濯場で、葉藏の毛のシヤツを洗つてゐるのだ。葉藏は、このシヤツを着て海へはひつた。磯の香がほのかにしみこんでゐた。
 午後になつて、飛騨が警察から歸つて來た。いきほひ込んで病室のドアをあけた。
「やあ、」葉藏がスケツチしてゐるのを見て、大袈裟に叫んだ。「やつてるな。いいよ。藝術家は、やつぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」
 さう言ひつつベツドへ近寄り、葉藏の肩越しにちらと畫を見た。葉藏は、あわててその木炭紙を二つに折つてしまつた。それを更にまた四つに折り疊みながら、はにかむやうにして言つた。
「駄目だよ。しばらく畫かないでゐると、頭ばかり先になつて。」
 飛騨は外套を着たままで、ベツドの裾へ腰かけた。
「さうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。藝術に熱心だからなのだ。まあ、さう思ふんだな。――いつたい、どんなのを畫いたの?」
 葉藏は頬杖ついたまま、硝子戸のそとの景色を顎でしやくつた。
「海を畫いた。空と海がまつくろで、島だけが白いのだ。畫いてゐるうちに、きざな氣がして止した。趣向がだいいち素人くさいよ。」
「いいぢやないか。えらい藝術家は、みんなどこか素人くさい。それでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人になつて、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさを覘つた男だ。いや、さうでもないかな。」
「僕は畫をよさうと思ふのだ。」葉藏は折り疊んだ木炭紙を懷にしまひこんでから、飛騨の話へおつか
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