いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉《かな》それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別《けつべつ》の辞として、誰にも媚《こ》びずに書きたかった。
 あいつも、だんだん俗物になって来たね。そのような無智な陰口が、微風と共に、ひそひそ私の耳にはいって来る。私は、その度毎に心の中で、強く答える。僕は、はじめから俗物だった。君には、気がつかなかったのかね。逆なのである。文学を一生の業として気構えた時、愚人は、かえって私を組し易しと見てとった。私は、幽かに笑うばかりだ。万年若衆は、役者の世界である。文学には無い。
 東京八景。私は、いまの此の期間にこそ、それを書くべきであると思った。いまは、差し迫った約束の仕事も無い。百円以上の余裕もある。いたずらに恍惚と不安の複雑な溜息《ためいき》をもらし
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