じがしました。床の間には、漢詩の軸。私には、一字も読めませんでした。竹の籠には、蔦《つた》が美しく活けられていました。机の傍には、とてもたくさんの本がうず高く積まれていました。
 まるで違うのです。歯も欠けていません。頭も禿《は》げていません。きりっとした顔をしていました。不潔な感じは、どこにもありません。この人が焼酎を飲んで地べたに寝るのかと不思議でなりませんでした。
「小説の感じと、お逢いした感じとまるでちがいます。」私は気を取り直して言いました。
「そうですか。」軽く答えました。あまり私に関心を持っていない様子です。
「どうして私の事をご存じになったのでしょう。それを伺いにまいりましたの。」私は、そんな事を言って、体裁を取りつくろってみました。
「なんですか?」ちっとも反応がありません。
「私が名前も住所もかくしていたのに、先生は、見破ったじゃありませんか。先日お手紙を差し上げて、その事を第一におたずねした筈ですけど。」
「僕はあなたの事なんか知っていませんよ。へんですね。」澄んだ眼で私の顔を、まっすぐに見て薄く笑いました。
「まあ!」私は狼狽《ろうばい》しはじめました。「だって、そんなら、私のあの手紙の意味が、まるでわからなかったでしょうに、それを、黙っているなんて、ひどいわ。私を馬鹿だと思ったでしょうね。」
 私は泣きたくなりました。私は何というひどい独り合点をしていたのでしょう。滅っ茶、滅茶。菊子さん。顔から火が出る、なんて形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。
「それでは、あの手紙を返して下さい。恥ずかしくていけません。返して下さい。」
 戸田さんは、まじめな顔をしてうなずきました。怒ったのかも知れません。ひどい奴だ、と呆《あき》れたのでしょう。
「捜してみましょう。毎日の手紙をいちいち保存して置くわけにもいきませんから、もう、なくなっているかも知れませんが、あとで、家の者に捜させてみます。もし、見つかったら、お送りしましょう。二通でしたか?」
「二通です。」みじめな気持。
「何だか、僕の小説が、あなたの身の上に似ていたそうですが、僕は小説には絶対にモデルを使いません。全部フィクションです。だいいち、あなたの最初のお手紙なんか。」ふっと口を噤《つぐ》んで、うつむきました。
「失礼いたしました。」私は歯の欠けた、
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング