だ、ばかやろう、と言い、ああ、私はもそもそと机の下で四つ這《ば》いの形のままで、あまり恥ずかしくて出るに出られず、あの奥さんがうらめしくてぽたぽた涙を落しました。
所詮《しょせん》は、私が愚かなせいでございましょう。しかし、それにしても、女の人のあの無慈悲は、いったいどこから出て来るのでございましょう。私のそれからの境涯に於いても、いつでもこの女の不意に発揮する強力なる残忍性のために私は、ずたずたに切られどおしでございました。
父が死んでから、私の家の内部もあまり面白くない事ばかりでございまして、私は家の事はいっさい母と弟にまかせると宣言いたしまして、十七の春に東京に出て、神田の或る印刷所の小僧になりました。印刷所と申しましても、工場には主人と職工二人とそれから私と四人だけ働いている小さい個人経営の印刷所で、チラシだの名刺だのを引受けて刷っていたのでございますが、ちょうどその頃は日露戦争の直後で、東京でも電車が走りはじめるやら、ハイカラな西洋建築がどんどん出来るやら、たいへん景気のよい時代でございましたので、その小さい印刷所もなかなか多忙でございました。しかし、どんなにいそがしく
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