、まあ、漠然と慕っていたという程度だったのでございましょう。実に、私は、その日の事は、いまでもはっきり覚えておりますが、野分《のわき》のひどく吹き荒れている日でございまして、私たちはそのお綺麗な奥さんからお習字をならっていまして、奥さんが私の傍をとおった時に、どうしたはずみか、私の硯箱《すずりばこ》がひっくりかえり、奥さんの袖《そで》に墨汁《ぼくじゅう》がかかって、そのために私は、居残りを命ぜられました。けれども私は、その奥さんを幽《かす》かに慕っていたのでございますから、居残りを言いつけられても、かえって嬉しかったくらいで、別におそろしくも何とも思いませんでしたのです。他の生徒たちは皆、雨の中を家へ帰って行きまして、教室には、私と奥さんと二人きりになり、そうすると、奥さんは急に人が変ったみたいにはしゃぎ出して、きょうは主人は隣村へ用たしに行ってまだ帰らず、雨も降るし淋《さび》しいから、あなたと遊ぼうと思って、それだから居残りを言いつけたのです、悪く思わないで下さい、坊ちゃん、かくれんぼうでもしましょうか、と言うのです。坊ちゃん、と言われて私は、やはり私の家はこの部落では物持ちで上品な
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