ると、すぐ腰が痛いとか何とか言って寝て、そうして婆と娘は、ろくでもない男にかかわり合ったから、こんな、とりかえしのつかないからだになってしまった、と口々に私を罵《ののし》り、そうして私にやたらと用事を言いつけてこき使い、店は私の努力のため、と敢《あ》えて私は言いたいのです、そのために少しずつ繁昌して、屋台を二つくっつけたくらいの増築では間に合わなくなりましたので、これも娘と婆の発案で、新富町の表通りに小さい家を借りまして、おでん、小料理と書いた提燈《ちょうちん》を出し、そうしてもう、その家に引越してからは、私は完全に下男の身分になりまして、婆の事を奥さんと呼び、わが女房を、おねえさん、と呼ぶように言いつけられ、婆と女房は二階に寝て、私は台所に薄縁《うすべり》を敷いて寝る事になったのでございます。
忘れも致しません、あれは秋のなかば、月の非常にいい夜でございましたが、私は十二時すぎに店をしまいまして、それから大いそぎで築地の或る心易くしている料理屋へ風呂をもらいに行きまして、かえりには、屋台でおそばを食べ、家へ来て勝手口をあけようとしても、もう内|桟《さん》をおろしてしまったようで、あきませんでした。それで私は表通りへ出て、二階を仰ぎ、奥さん、おねえさん、奥さん、おねえさん、と小声で呼んでみましたが、もう眠ってしまったのかどうだか、二階はまっくらで、そうして何の反応もございません。湯上りのからだに秋風がしみて、ひどくいまいましい気持になり、私はゴミ箱を足がかりにして屋根へ上り、二階の雨戸を軽くたたいて、奥さん、おねえさん、とまた低く呼びましたら、だしぬけに内から女房が、どろぼう! と大声で叫び、さらにまた、どろぼう! どろぼう! どろぼう! と喚《わめ》き続け、私は狼狽《ろうばい》して、いやちがう、おれだよ、おれだよ、と言っても聞きわけてくれず、どろぼう! どろぼう! どろぼう! と連呼し、やがて、ジャンジャンジャンというまことに異様な物音が内から聞え、それは婆が金盥《かなだらい》を打ち鳴らしているのだという事が後でわかりましたが、私は身の毛のよだつほどの恐怖におそわれ、屋根から飛び降りて逃げようとしたとたんに、女房たちの騒ぎを聞いて駈《か》けつけて来たおまわりにつかまえられまして、二つ三つ殴《なぐ》られ、それから、おまわりは月の光にすかして私の顔をつくづく見まして、なんだ、お前か、と言いました。すぐ近くの交番のおまわりで、私とはもちろん顔馴染《かおなじみ》の仲なのです。私は手短かに事情を申し述べますと、おまわりは、へえ、そりゃひどい、と言って笑ってしまいましたが、しかし、二階では、まだ、どろぼう! どろぼう! と叫び、金盥も打ちつづけていまして、近所近辺の人たちも皆、起きて外へ飛び出し、騒ぎが大きくなるばかりでございましたので、おまわりは、蛮声を張りあげて、二階の者たちに、店の戸をあけろ! と呶鳴りました。それでどうやら二階の狂乱もしずまり、二階に電気がつき、やがて、下にも電気がつきまして、店の戸が内からあいて、寝巻姿の婆と女房は、きょときょと顔を出し、おまわりは苦笑しながら、どろぼうではない、と言って私を前面に押し出しましたら、婆はけげんな顔をして、これは誰ですか、こんな男は存じません、お前は知っているか、と娘に尋ね、娘も真顔で、とにかくあたしたちの家の者ではありません、と答えます。そんなにまでされては、さすがに私も、呆れかえって物が言えない気持になり、そうですか、さようなら、と言って、おまわりの呼びとめるのも聞かず、すたすたと川のほうに歩いて行き、どうせもう、いつかは私は追い出すつもりでいたのでしょうし、とても永くは居られない家なのだから、きょうを限り、またひとり者の放浪の生活だと覚悟して、橋の欄干《らんかん》によりかかったら、急にどっと涙が出て来て、その涙がぽたんぽたんと川の面《おもて》に落ち、月影を浮べてゆっくり流れているその川に、涙の一滴ずつ落ちる度毎《たびごと》に小さい美しい金の波紋が生じて、ああ、それからもう二十年ちかく経ちますが、私はいまでも、あの時の淋《さび》しさ悲しさをそのまんま、ありありと思い出す事ができるのでございます。
それからも私は、いろんな女から手ひどい打撃を受けつづけてまいりまして、けれどもそれは無学の女だから、そのような思い切ったむごい仕打ちが出来るのか、と思うと、どうしてどうして、決してそういうものでなく、永く外国で勉強して来た女子大学の婆さん教授で、もうこのお方は先年物故なさいましたが、このお方のために私の或る詩集が、実に異様なくらい物凄い嘲罵を受け、私はしんそこから戦慄し、それからは、まったく一行《いちぎょう》の詩も書けなくなり、反駁《はんばく》したいにも、どうにも、その罵言《ばげ
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