ながら驚歎の念を禁じ得ないものがございます。新聞配達もいたしました。バタヤも致しました。立ちん棒もいたしました。屋台店もひらきました。ミルクホールのようなものもやってみました。けしからぬ写真や絵を売って歩いた事もございました。インチキ新聞の記者になったり、暴力団の走り使いになったり、とにかく、ダメな男に出来る仕事の全部をやったと言っても決して言い過ぎではないかと存じます。そうして、そのダメな男は、いよいよただおのずからダメになるばかりで、ついに単身ボロをまとって都落ちをして、いまは弟の居候《いそうろう》という事になって何一つ見るべきところの無い生涯で、いまさら誰をも、うらむ資格も何もございませんが、けれども、それでも、ああ、あの時あの女が、あれほど私に意地悪くしなかったならば、私も多少のプライドと力を得て、ダメはダメなりに何とか形のついた男になっていたのではなかろうかしら、と老いの寝ざめに、わが幼少からの悲惨な女難のかずかずを反芻《はんすう》してみて、やっぱり、胸をかきむしりたい思いに駆られる事もございますのです。
私は東京に於いて、三人の女房に逃げられました。最初の女房もひどい奴でしたが、二番目のは、なおたちが悪く、三番目のは、逃げるどころか、かえって私を追い出しました。
へんな事を言うようですが、私はこれでも、結婚にあたって私のほうから積極的に行動を開始した事は一度も無く、すべて女性のほうから私のところに押しかけて来るという工合で、いや、でもこれは決してのろけではございません。女性には、意志薄弱のダメな男をほとんど直観に依《よ》って識別し、これにつけ込み、さんざんその男をいためつけ、つまらなくなって来ると敝履《へいり》の如く捨ててかえりみないという傾向がございますようで、私などはつまりその絶好の獲物であったわけなのでございましょう。
最初の女房は、これはまあ当時の文学少女とでもいうべき、眼鏡をかけて脳の悪い女でしたが、これがまた朝から夜中まで、しょっちゅう私に、愛しかたが足りない、足りない、と言って泣き、私もまことに閉口して、つい渋い顔になりますと、たちまちその女は金切声を挙げて、ああ、あのおそろしい顔! 悪魔だ! 色魔だ! 処女をかえせ! 貞操|蹂躙《じゅうりん》! 損害賠償! などと実に興覚めな事を口走り、その頃は私も一生懸命に勉強していい詩を書きたいと念じていた矢先で、謂《い》わば青雲《せいうん》の志をほのかながら胸に抱いていたのでございますから、たとい半狂乱の譫言《うわごと》にもせよ、悪魔だの色魔だの貞操蹂躙だのという不名誉きわまる事を言われ、それが世間の評判になったら、もうそれだけで自分の将来は滅茶苦茶になるのではあるまいかと思えば、じっさい笑い事ではなく、まだ私も若かっただけに、あまりに憂鬱で、この女を殺して自分も死のうかと、何度考えたかわかりません。とうとうこの女は、私と同棲三年目に、私を捨てて逃げて行きました。へんな書き置きみたいなものを残して行きましたが、それがまた何とも不愉快、あなたはユダヤ人だったのですね、はじめてわかりました、虫にたとえると、赤蟻《あかあり》です、と書いてあるのです。何の事だか、まるでナンセンスのようでございますが、しかし、感覚的にぞっとするほどイヤな、まるで地獄の妖婆《ようば》の呪文みたいな、まことに異様な気持のする言葉で、あんな脳の悪い女でも、こんな不愉快きわまる戦慄《せんりつ》の言葉を案出し投げつけて寄こす事が出来るとは、実に女性というものには、底の知れないおそろしいところがあるとつくづく感じ入りましたのでございます。
けれどもそれは、まあ、文学少女の、文学的な悪態で、二番目の女房の現実的な悪辣《あくらつ》さに較《くら》べると、まだしも我慢が出来ると言っていいかも知れませんでございます。この二番目の女房は、私が本郷に小さいミルクホールをひらいた時、給仕女として雇った女で、ミルクホールが失敗して閉鎖になってもそのままずるずると私のところに居ついてしまいまして、この女はまた金を欲しがる事、あたかも飢渇《きかつ》の狼《おおかみ》の如く、私の詩の勉強などはてんで認めず、また私の詩の友人ひとりひとりに対する蔭口は猛烈をきわめ、まあ俗に言うしっかり者みたいな一面がありまして、私の詩の評判などはどうだってかまわない様子で、ただもう私の働きの無い事をののしり、自分ほど不仕合せの者は無いと言って歎き、たまに雑誌社の人が私のところに詩の註文を持って来てくれると、私をさし置いて彼女自身が膝をすすめて、当今の物価の高い事、亭主は愚図《ぐず》で頭が悪くて横着で一つも信頼の出来ぬ事、詩なんかではとても生活して行かれぬから、亭主をこれから鉄道に勤めさせようと思っている事、悪い詩の友だちがついている
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