ても、仕事はつらいとは思いませんでしたが、その印刷所のおかみさんと、それから千葉県出身だとかいう色のまっくろな三十歳前後のめしたき女と、この二人の意地くね悪い仕打には、何度泣かされたかわかりません。ご自分のしている事が、どんなにこちらに手痛いか、てんでお気附きにならないらしいので、ただもう、おそろしいと言うよりほかはございませんでした。内にいると、そのおかみさんとめしたき女にいじめられるし、たまたま休みの日など外へ遊びに出ても、外にはまた、別種の手剛《てごわ》い意地悪の夜叉《やしゃ》がいるのでございました。あれは、私が東京へ出て一年くらい経った、なんでもじめじめ雨の降り続いている梅雨の頃の事と覚えていますが、柄《がら》でも無く、印刷所の若いほうの職工と二人で傘《かさ》をさして吉原へ遊びに行き、いやもう、ひどいめに逢いました。そもそも吉原の女と言えば、女性の中で最もみじめで不仕合せで、そうして世の同情と憐憫《れんびん》の的《まと》である筈でございましたが、実際に見学してみますると、どうしてなかなか勢力のあるもので、ほとんどもう貴婦人みたいにわがままに振舞い、私は呶鳴《どな》られはせぬかとその夜は薄氷を踏むが如く言語動作をつつしみ、心しずかにお念仏など申し生きた心地もございませんでした。お念仏のおかげかどうか、その夜は別段叱り飛ばされる事もなく、きぬぎぬの朝を迎えましたが、女はお茶を一つ飲んで行け、と言います。おいらんの中でも、あれは少し位の高いほうだったのかも知れません、ちょっと威厳さえ持っていました。そうして婆に言いつけて、私の連れの職工とその相手のおいらんをも私たちの部屋へ呼んで来させ、落ちついてお茶をいれ、また部屋の隅の茶箪笥《ちゃだんす》から、お皿に一ぱい盛った精進揚《しょうじんあ》げを取り出し私たちにすすめました。連れの職工は、おい旦那、と私を呼び、奥さんの手料理をそれではごちそうになるとしよう、お前、案外もてやがるんだなあ、いろおとこめ、と言います。そう言われて私もまんざらでなく、うふふと笑ってやにさがり、いもの天ぷらを頬張ったら、私の女が、お前、百姓の子だね、と冷く言います。ぎょっとして、あわてて精進揚げを呑みくだし、うむ、と首肯《うなず》くと、その女は、連れの職工のおいらんのほうを向いて小声で、育ちの悪い男は、ものを食べさせてみるとよくわかるんだよ、ち
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