だ。
「えらい。」私もぐっと飲んだ。「僕ね、きょうはとても、うれしいんだ。小説は書きあげたし。」
「あら! 小説家?」
「しまった。見つけられたな。」
「いいわねえ。」
雪は、酔っぱらったらしく、とろんとした眼をうっとり細めた。それから、この温泉地に最近来たことのある二三の作家の名前を言った。ああ、そのなかに私の名前もあるではないか。私は、私の耳をうたがった。酔がいちじに醒《さ》める気がした。ほんものがこのまちに来ている。
「君は、知っているの?」
私は、こんな場合に、よくもこんなに落ちつけたものだ、といまでも感心している。臆病者というものは、勇士と楯のうらおもてぐらいのちがいしかないものらしい。
「いいえ。見たことがないわ。でもいま、そのかた、百花楼に居られるって。あなた、おともだち?」
私は、ほっと安心した。それでは、私のことだ。百花楼のおなじ名前の作家がふたりいる筈がない。
「どうして百花楼にいることなんか知れたんだろう。」
「それあ、判るわ。私、小説が少し好きなの。だから、気をつけてるの。宿屋のお女中さんたちから聞いたわ。なんと言ったって、狭いまちのことだもの。それあ、判るわ。」
「君は、あいつの小説、好きかね。」
私は、わざと意味ありげに、にやにや笑った。
「大好き。あの人の花物語という小説、」言いかけて、ふっと口を噤《つぐ》んだ。「あら! あなただわ。まあ、私、どうしよう。写真で知ってるわよ。知ってるわよ。」
私は夢みる心地であった。私が、かの新進作家と似ているとは! しかし、いまは躊躇《ちゅうちょ》するときでない。私は機を逸せず、からからと高笑いした。
「まあ、おひとが悪いのねえ。」少女は、酒でほんのり赤らんでいる頬をいっそう赤らめた。「私も馬鹿だわねえ。ひとめ見て、すぐ判らなけれあ、いけない筈なのに。でも、お写真より、ずっと若くて、お綺麗《きれい》なんだもの。あなたは美男子よ。いいお顔だわ。きのうおいでになったとき、私、すぐ。」
「よせ、よせ。僕におだては、きかないよ。」
「あら、ほんと。ほんとうよ。」
「君は酔っぱらってるね。」
「ええ、酔っぱらってるの。そして、もっと、酔っぱらうの。もっともっと酔っぱらうの。けいちゃあん。」他のお客とふざけている日本髪の少女を呼んだ。「ウイスキイお二つ。私、今晩酔っぱらうのよ。うれしいことがあるんだもの
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