してからは、急速に芹川さんの気持もすすんで、何だか、ふたりで、きめてしまったのだそうです。先方は、横浜の船会社の御次男だとか、慶応の秀才で、末は立派な作家になるでしょうとか、いろいろ芹川さんから教えていただきましたけれど、私には、ひどく恐しい事みたいで、また、きたならしいような気さえ致しました。一方、芹川さんをねたましくて、胸が濁ってときめき致しましたが、努めて顔にあらわさず、いいお話ね、芹川さんしっかりおやりなさい、と申しましたら、芹川さんは敏感にむっとふくれて、あなたは意地悪ね、胸に短剣を秘めていらっしゃる、いつもあなたは、あたしを冷く軽蔑していらっしゃる、ダイヤナね、あなたは、といつになく強く私を攻めますので私も、ごめんなさい、軽蔑なんかしてやしないわ、冷く見えるのは私の損な性分《しょうぶん》ね、いつでも人から誤解されるの、私ほんとうは、あなたたちの事なんだか恐しいの、相手のおかたが、あんまり綺麗すぎるわ、あなたを、うらやんでいるのかも知れないのね、と思っていることをそのまま申し述べましたら、芹川さんも晴れ晴れと御機嫌を直して、そこなのよ、あたし、家の兄さんにだけは、このことを打ち明けてあるのだけれど、兄さんも、やっぱりあなたと同じようなことを言って、絶対反対なの、もっと地《じ》みちな、あたりまえの結婚をしろって言うのよ、もっとも兄さんは徹底した現実家だから、そう言うのも無理はないけれど、でも、あたし兄さんの反対なんか気にしていないの、来年の春、あの人が学校を卒業したら、あたしたちだけでちゃんときめてしまうの、と可愛く両肩を張って意気込んでいました。私は無理に微笑み、ただ首肯《うなず》いて聞いていました。あの人の無邪気さが、とても美しく、うらやましく思われ、私の古くさい俗な気質が、たまらなく醜いものに思われました。そんな打ち明け話があってから、芹川さんと私との間は、以前ほど、しっくり行かなくなって、女の子って変なものですね、誰か間に男の人がひとりはいると、それまでどんなに親しくつき合っていたっても、颯《さ》っと態度が鹿爪らしくなって、まるで、よそよそしくなってしまうものです。まさか私たちの間は、そんなにひどく変ったわけではございませんけれど、でも、お互に遠慮が出て、御挨拶まで叮嚀になり、口数も少なくなりましたし、よろずに大人びてまいりました。どちらからも、あの写真の一件に就いて話するのを避けるようになりまして、そのうちに年も暮れ、私も芹川さんも、二十三歳の春を迎えて、ちょうど、そのとしの三月末のことでございます。夜の十時頃、私が母と二人でお部屋にいて、一緒に父のセルを縫って居りましたら、女中がそっと障子をあけ、私を手招ぎ致します。あたし? と眼で尋ねると、女中は真剣そうに小さく二三度うなずきます。なんだい? と母が眼鏡を額《ひたい》のほうへ押し上げて女中に訊ねましたら、女中は、軽く咳《せき》をして、あの、芹川さまのお兄様が、お嬢さんに鳥渡《ちょっと》、と言いにくそうに言って、また二つ三つ咳をいたしました。私は、すぐ立って廊下に出ました。もう、わかってしまったような気がしていたのです。芹川さんが、何か問題を起したのにちがいない、きっとそうだ、ときめてしまって、応接間に行こうとすると、女中は、いいえお勝手のほうでございます、と低い声で言って、いかにも一大事で緊張している者のように、少し腰を落して小走りにすッすッと先に立って急ぎます。ほの暗い勝手口に芹川さんの兄さんが、にこにこ笑いながら立っていました。芹川さんの兄さんとは、女学校に通っていたときには、毎朝毎夕挨拶を交して、兄さんは、いつでも、お店で、小僧さんたちと一緒に、くるくると小まめに立ち働いていました。女学校を出てからも、兄さんは、一週間にいちどくらいは、何かと注文のお菓子をとどけに、私の家へまいっていまして、私も気易く兄さん、兄さんとお呼びしていました。でも、こんなに遅く私の家にまいりましたことは一度も無いのですし、それに、わざわざ私を、こっそり呼ぶというのは、いよいよ芹川さんのれいの問題が爆発したのにちがいない、とわくわくしてしまって、私のほうから、
「芹川さんは、このごろお見えになりませんのよ。」と何も聞かれぬさきに口走ってしまいました。
「お嬢さん、ご存じだったの?」と兄さんは一瞬けげんな顔をなさいました。
「いいえ。」
「そうですか。あいつ、いなくなったんです。ばかだなあ、文学なんて、ろくな事がない。お嬢さんも、まえから話だけはご存じなんでしょう?」
「ええ、それは、」声が喉《のど》にひっからまって困りました。「存じて居ります。」
「逃げて行きました。でも、たいていいどころがわかっているんです。お嬢さんには、あいつ、このごろ、何も言わなかったんですね?」
「え
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