え、このごろは私にも、とてもよそよそしくしていました。まあ、どうしたのでしょう。おあがりになりません? いろいろお伺いしたいのですけれど。」
「は、ありがとう。そうしても居られないのです。これから、すぐあいつを捜しに行かなければなりません。」見ると、兄さんは、ちゃんと背広を着て、トランクを携帯して居ります。
「心あたりがございますの?」
「ええ、わかって居ります。あいつら二人をぶん殴って、それで一緒にさせるのですね。」
兄さんはそう言って屈託なく笑って帰りましたけれど、私は勝手口に立ったままぼんやり見送り、それからお部屋へ引返して、母の物問いたげな顔にも気づかぬふりして、静かに坐り、縫いかけの袖《そで》を二針三針すすめました。また、そっと立って、廊下へ出て小走りに走り、勝手口に出て下駄をつっかけ、それからは、なりもふりもかまわず走りました。どういう気持であったのでしょう。私は未だにわかりません。あの兄さんに追いついて、死ぬまで離れまい、と覚悟していたのでした。芹川さんの事件なぞてんで問題でなかったのです、ただ、兄さんに、もいちど逢いたい、どんなことでもする、兄さんと二人なら、どこへでも行く、私をこのまま連れていって逃げて下さい、私をめちゃめちゃにして下さいと私ひとりの思いだけが、その夜ばかり、唐突に燃え上って、私は、暗い小路小路を、犬のように黙って走って、ときどき躓《つまず》いてはよろけ、前を掻《か》き合せてはまた無言で走りつづけ涙が湧いて出て、いま思うと、なんだか地獄の底のような気持でございます。市ヶ谷見附の市電の停留場にたどりついたときは、ほとんど呼吸ができないくらいに、からだが苦しく眼の先がもやもや暗くて、きっとあれは気を失う一歩手前の状態だったのでございましょう。停留場には人影ひとつ無かったのでした。たったいま、電車が通過した跡の様子でございました。私は最後の一つの念願として、兄さあん! とできるだけの声を絞って呼んでみました。しんとしています。私は胸に両袖を合せて帰りました。途々、身なりを整えてお家へ戻り、静かにお部屋の障子をあけたら、母は、何かあったのかい? といぶかしそうに私の顔を見るので、ええ、芹川さんがいなくなったんですって、たいへんねえ、とさりげなく答えて、また縫いものをはじめました。母は、何か私につづけて問いたいふうでしたが、思いかえした様子で、黙って縫いものをつづけました。それだけの話でございます。芹川さんは、まえにも申し上げましたが、その三田のおかたと芽出度く結婚なされて、いまは朝鮮のほうにいらっしゃる様子でございます。私もその翌年に、いまの主人を迎えました。芹川さんの兄さんとは、そののちお逢いしても、別になんともございません。いまは華月堂の当主でして、綺麗な小さいおかみさんをおもらいになって仲々繁昌して居ります。やっぱり、ずっとつづけて一週間にいちどくらいは、御主人が注文の御菓子をとどけにまいります。別に、かわったこともございません。私は、あの夜、縫いものをしながら、うとうと眠って夢を見たのでございましょうか。夢にしては、いやにはっきりしているようでございます。あなたには、おわかりでしょうか。まるで嘘みたいなお話でございます。でも、之《これ》は秘密にして置いていただきましょう。娘があなた、もう女学校三年になるのでございますもの。
底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月刊行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
1999年12月20日公開
2005年10月25日修正
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