つてゐたのである。
「気で押すさ。」とN君は突き放すやうな口調で言つて、ズボンのバンドをしめ上げ、「僕たちだつて、なほしたんぢやないか。」
 N君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘つて来たのである。N君はひどい喘息だつたが、いまはそれを完全に克服してしまつた様子である。
 この旅行に出る前に、満洲の兵隊たちのために発行されてゐる或る雑誌に短篇小説を一つ送る事を約束してゐて、その締切がけふあすに迫つてゐたので、私はその日一日と、それから翌る日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。N君も、その間、別棟の精米工場で働いてゐた。二日目の夕刻、N君は私の仕事をしてゐる部屋へやつて来て、
「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のはうは、もう一時間経つたら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやつてしまつた。あとでまた遊ばうと思ふと気持に張合ひが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言つて、すぐ工場のはうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやつて来て、
「書けたかね。僕のはうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだらう。汚い工場だよ。見ないはうがいいかも知れない。まあ、精を出さう。僕は工場のはうにゐるからね。」と言つて帰つて行くのである。鈍感な私も、やつと、その時、気がついた。N君は私に、工場で働いてゐる彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違ひない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、といふ謎であつたのだ。私はそれに気が附いて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になつてゐる精米工場に出かけた。N君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目まぐるしく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまはし、仔細らしい顔をして立つてゐた。
「さかんだね。」と私は大声で言つた。
 N君は振りかへり、それは嬉しさうに笑つて、
「仕事は、すんだか。よかつたな。僕のはうも、もうすぐなんだ。はひり給へ。下駄のままでいい。」と言ふのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはひるほど無神経な男ではない。N君だつて、清潔な藁草履とはきかへてゐる。そこらを見廻しても、上草履のやうなものも無かつたし、私は、工場の門口に立つて、ただ、にやにや、笑つてゐた。裸足《はだし》になつてはひらうかとも思つたが、それはN君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似てゐるやうにも思はれて、裸足にもなれなかつた。私には、常識的な善事を行ふに当つて、甚だてれる悪癖がある。
「ずいぶん大がかりな機械ぢやないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。」お世辞では無かつた。N君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかつたのである。
「いや、簡単なものなんだ。このスヰツチをかうすると、」などと言ひながら、あちこちのスヰツチをひねつて、モーターをぴたりと止めて見せたり、また籾殻の吹雪を現出させて見せたり、出来上りの米を瀑布のやうにざつと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつつて見せるのである。
 ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちよこんと載つてゐて、さうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」といふ説明の文句が印刷されてあつた。私は、そのポスターを永い事、見つめてゐたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑つた。私もにやりと笑つた。同罪の士である。「どうもねえ。」といふ感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張つて置くN君を、いぢらしく思つた。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載つてゐるといふ按配なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言ふべきところであらう。
 工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでゐる。あれは何? とN君に聞いたら、N君は幽かな溜息をついて、
「あれは、なあ、縄を作る機械と、筵《むしろ》を作る機械なんだが、なかなか操作がむづかしくて、どうも僕の手には負へないんだ。四、五年前、この辺一帯ひどい不作で、精米の依頼もばつたり無くなつて、いや、困つてねえ、毎日毎日、炉傍に坐つて煙草をふかして、いろいろ考へた末、こんな機械を買つて、この工場の隅で、ばつたんばつたんやつてみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。淋しいもんだつたよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食ひさ。あの頃は、もう、どうなる事かと思つたね。」
 N君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あづかつてゐるのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさつたので、N君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がつてゐるのだ。奥さんの言に依れば、N君は可愛がりすぎる傾きさへあるさうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはひつてゐるのださうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言つて玄関の戸を叩き、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言つてものも言へず、さうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろと、矢継早に用事を言ひつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでせうから、と言ひかけたら、「な、なにい!」と言つて頗る大袈裟に奥さんに向つてこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷつと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑ひ出し、奥さんも笑つて、何が何やら、うやむやになつたといふ事などもあつたさうで、それもまた、N君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。
「七転び八起きだね。いろんな事がある。」と言つて私は、自分の身の上とも思ひ合せ、ふつと涙ぐましくなつた。この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばつたんばつたん筵を織つてゐる侘しい姿が、ありありと眼前に見えるやうな気がして来た。私は、この友人を愛してゐる。
 その夜はまた、お互ひ一仕事すんだのだから、などと言ひわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合つた。N君は青森県郷土史研究会の会員だつたので、郷土史の文献をかなり持つてゐた。
「何せ、こんなだからなあ。」と言つてN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のやうな、津軽凶作の年表とでもいふべき不吉な一覧表が載つてゐた。
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元和一年    大凶
元和二年    大凶
寛永十七年   大凶
寛永十八年   大凶
寛永十九年    凶
明暦二年     凶
寛文六年     凶
寛文十一年    凶
延宝二年     凶
延宝三年     凶
延宝七年     凶
天和一年    大凶
貞享一年     凶
元禄五年    大凶
元禄七年    大凶
元禄八年    大凶
元禄九年     凶
元禄十五年   半凶
宝永二年     凶
宝永三年     凶
宝永四年    大凶
享保一年     凶
享保五年     凶
元文二年     凶
元文五年     凶
延享二年    大凶
延享四年     凶
寛延二年    大凶
宝暦五年    大凶
明和四年     凶
安永五年    半凶
天明二年    大凶
天明三年    大凶
天明六年    大凶
天明七年    半凶
寛政一年     凶
寛政五年     凶
寛政十一年    凶
文化十年     凶
天保三年    半凶
天保四年    大凶
天保六年    大凶
天保七年    大凶
天保八年     凶
天保九年    大凶
天保十年     凶
慶応二年     凶
明治二年     凶
明治六年     凶
明治二十二年   凶
明治二十四年   凶
明治三十年    凶
明治三十五年  大凶
明治三十八年  大凶
大正二年     凶
昭和六年     凶
昭和九年     凶
昭和十年     凶
昭和十五年   半凶
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 津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだらう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があつたのである。まづ五年に一度づつ凶作に見舞はれてゐるといふ勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用ゐたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月|佞武多《ねぶた》(作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車《だし》と思はば大過なからん歟。)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」といふ、あはれと言ふより他には全く言ひやうのない有様が記されてあつて、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ(津軽では、凶作の事をケガヅと言ふ。飢渇《きかつ》の訛りかも知れない。)の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になつて泣きべそをかいてしまつたものだが、久し振りで故郷に帰り、このやうな記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さへ感ぜられて、
「これは、いかん。」と言つた。「科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植附けの時期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしつた。
 N君は笑つて、
「沙漠の中で生きてゐる人もあるんだからね。怒つたつて仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。」
 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすつて育つた私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はつてゐないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違ひないが、私はやはり祖先のかなしい血
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