ではなかつたのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。
慎しまうと思ひながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言つてゐるのか、わからない場合が多い。嘘を言つてゐる事さへある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
その夜は、しかし、私はそのやうな下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがつたばかりの蟹なのであらう。もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれといふ自戒を平気で破つて、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさへ、そのお膳の料理の豊潤に驚いてゐたくらゐであつた。顔役のお客さんたちが帰つてしまふと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキといふのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあつた場合、お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは「後引《あとひ》き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂ひは無かつたが、
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、さうなのである。
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。でもね、このごろは、かう考へ直さうと努めてゐるんだ。あいつは、僕が教へなくたつて、ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。僕の知つた事ではないと。」
「ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。」
やがて奥さんも加り、お互ひの子供の事など語り合つて、しんみり、アトフキをやつてゐるうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。
翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どほり、朝の一番のバスでやつて来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来てゐた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしてゐるSさんといふ人も一緒に来てゐた。私が顔を洗つてゐる間に、三厩の近くの今別から、Mさんといふ小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いてゐたらしく、はにかんで笑ひながらやつて来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のやうである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行かうといふ相談が、まとまつた様子である。
観瀾山《くわんらんざん》。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲つてゐる。さうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられてゐて、蟹をはじめ、イカ、カレヒ、サバ、イワシ、鱈、アンカウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだぢやあ、アンカウにアオバだぢやあ、スズキにホツケだぢやあ、と怒つてゐるやうな大声で叫んで、売り歩いてゐるのである。さうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱はないやうである。よそへ送つてしまふのかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べてゐるわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたつた一日でも漁の無かつた時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしてゐる。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれてゐるところのやうである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫つてゐるので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾してゐるところも少くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでゐる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰《かげ》の意)と呼んで、多少、あはれんでゐる傾向が無いわけでもないやうに思はれる。けれども、この蟹田地方セけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持つてゐるのだ。西部の人たちに、あはれまれてゐると知つたら、蟹田の人たちは、くすぐつたく思ふだらう。蟹田地方には、蟹田川といふ水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れてゐて、その流域に田畑が広く展開してゐるのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないやうであるが、しかし、西部の人たちが想像してゐるほど、土地が痩せてはゐないのである。観瀾山から見下すと、水量たつぷりの蟹田川が長蛇の如くうねつて、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払つて控へてゐて、ゆたかな、たのもしい景観をなしてゐる。山は奥羽山脈の支脈の梵珠《ぼんじゆ》山脈である。この山脈は津軽半島の根元《ねもと》から起つてまつすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走つて海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらゐの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまつすぐ西に青く聳えてゐる大倉岳は、この山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらゐのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハツキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢へてその山脈の低きを恥ぢる必要もあるまい。この山脈は、全国有数の扁柏《ひば》の産地である。その古い伝統を誇つてよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかぢやないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらつて試植し、それから明治二十年代に到つてフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教はつて、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言へばすぐに林檎を思ひ出し、さうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないやうに見受けられる。青森県といふ名もそこから起つたのではないかと思はれるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合つて冬もなほ青く繁つてゐる。昔から、日本三大森林地の一つとして数へられてゐるやうであつて、昭和四年版の日本地理風俗大系にも、「そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なほその鬱蒼をつづけ、さうしてわが国の模範林制と呼ばれてゐる。はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行ひ、もつて潮風を防ぎ、またもつて岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲ひ、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいはゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依つて耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到つた。それより、藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到つても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐へる特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもつて重宝がられ、年産額八十万石。」と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらゐになつてゐると思はれる。けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であつて、これを以つて特別に蟹田地方だけの自慢となす事は出来ないが、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出てゐて、さうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質でしかも安価なので知られてゐる。」といふ説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、
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