ざ》つたらしい芝居気たつぷりの、思ひ上つた言葉である。私は言つてしまつて身悶えした。他に言ひかたが無いものか。
「それは、かへつて愉快ぢやないんです。」T君も敏感に察したやうである。「私は金木のあなたの家に仕へた者です。さうして、あなたは御主人です。さう思つていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経つてゐますけれども、いまでもしよつちゆう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまつた! と思つて、はつと夢から醒める事があります。」
 バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじみ出て来た。合浦公園の桜は、いま、満開だといふ話であつた。青森市の街路は白つぽく乾いて、いや、酔眼に映つた出鱈目な印象を述べる事は慎しまう。青森市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になつた豊田のお父さんのお墓におまゐりして、バスの発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言へたのでもあらうが、私も流石にとしをとつて少しは遠慮といふ事を覚えて来たせゐか、それとも、いや、気持のややこしい説明はよさう。つまり、お互ひ、大人《おとな》になつたのであらう。大人《おとな》といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙つて歩いてゐた。突然、T君のはうから言ひ出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢ひませう。」
「病院のはうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、さうか。早く言へばいいのに。」
 私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残つてゐた。

     二 蟹田

 津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟《うしろがた》、蓬田《よもぎた》、蟹田、平館《たひらだて》、一本木、今別《いまべつ》、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩《みまや》に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛《たつぴ》の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つてもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えてゐる様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。私がこんど津軽を行脚するに当つて、N君のところへも立寄つてごやくかいになりたく、前もつてN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」といふやうな事を書いてやつた筈で、Hべものには淡泊なれ、といふ私の自戒も、蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しやこ、何の養分にもならないやうな食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かつた筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。
 蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。
「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人《おとな》」の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞いてゐたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 N君は、ほつとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」
「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」
「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。
「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」
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何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪|逓《たがひ》に相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時|一盞《いつさん》無くんば、何を以てか平生を叙せん。  (白居易)
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 私は、中学時代には、よその家へ遊びに行つた事は絶無であつたが、どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿してゐた。私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。さうして、帰りには裏路の、海岸伝ひにぶらぶら歩いて、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。いま思へば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持つて近くの山へ遊びに行つた。「思ひ出」といふ私の初期の小説の中に出て来る「友人」といふのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかつた。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思ふより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服してゐた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなつて帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んセけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であつた。芭蕉翁の行脚掟として世に伝へられてゐるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、といふ一箇条があつたやうであるが、あの、論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、といふ意味に私は解してゐるので、敢へて翁の教へに従はうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。よその家でごちそうになつて、さうして乱に及ぶなどといふ、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諸の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、といふ条項もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の聴講生に取りまかれてゐる講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、さうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではなし、N君だつてまさか私から、文学の講義を聞かうと思つて酒席をまうけたわけぢやあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだつて、私がN君の昔からの親友であるといふ理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしてゐるといふやうな実情なのだから、私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。)こんどの旅に依つて、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけ
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