立ちどまつて煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめてゐた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、
「ここがいい。この辺がいい。」と言つて池の岬の木蔭に腰をおろした。「アヤ、ちよつと調べてくれ。これは、ウルシの木ぢやないだらうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだらう。ウルシの木ではないと言ふ。
「ぢやあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑つてゐたが、私は真面目であつた。それも、ウルシの木ではないと言ふ。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしやべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山といふところへ行つて、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまつさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」といふ唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいふ海岸生れの子供の歌をうたふのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であつた。さうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言はれたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばつて、まづ袴と靴をぬがせられ、草履、といつても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履といふ、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがはれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあづけ、たうとう病人用として学校で傭つて行つた荷車に載せられ、家へ帰つた時の恰好つたら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑はせてゐると、
「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。
「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走つて迎へに行つた。やがて、兄は、ピツケルをさげて現はれた。私はありつたけのビールをみな飲んでしまつてゐたので、甚だ具合がわるかつた。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行つた。バサツと大きい音がして、水鳥が池から飛び立つた。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合つた。雁だか鴨だか、口に出して言へるほどには、お互ひ自信がなかつたやうなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違ひなかつた。深山幽谷の精気が、ふつと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙つて歩いてゐる。兄とかうして、一緒に外を歩くのも何年振りであらうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのやうに背中を丸くして黙つて歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があつたけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されてゐるとは思はない。一生、だめかも知れない。ひびのはひつた茶碗は、どう仕様も無い。どうしたつて、もとのとほりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これつきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思つた。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝といふ、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁《へり》に沿うた幅一尺くらゐの心細い小路を歩いてゐるのであつて、右手はすぐ屏風を立てたやうな山、左手は足もとから断崖になつてゐて、その谷底に滝壺がいかにも深さうな青い色でとぐろを巻いてゐるのである。
「これは、どうも、目まひの気味です。」と嫂は、冗談めかして言つて、陽子の手にすがりついて、おつかなさうに歩いてゐる。
 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いてゐる。兄はピツケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇つてゐる箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけてゐる。路は次第に下り坂になつて、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひよいひよいと二歩で飛び越せるやうになつてゐる。ひとりひとり、ひよいひよいと飛び越した。嫂が、ひとり残つた。
「だめです。」空言つて笑ふばかりで飛び越さうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。
「おぶつてやりなさい。」と兄は、アヤに言ひつけた。アヤが傍へ寄つても、嫂は、ただ笑つて、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根つこを抱きかかへて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちよつと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やつと半分くらゐ渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じやぶじやぶと水の中を歩いて渡つてしまつた。モンペの裾も白足袋も草履も、びしよ濡れになつた様子である。
「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさつきの高山へ遠足してみじめな姿で帰つた話をふと思ひ出したらしく、笑ひながらさう言つて、陽子もお婿さんも、どつと笑つたら、兄は振りかへつて、
「え? 何?」と聞いた。みんな笑ふのをやめた。兄がへんな顔をしてゐるので、説明してあげようかな、とも思つたが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまつて「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かつた。兄は黙つて歩き出した。兄は、いつでも孤独である。

     五 西海岸

 前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知つてゐなかつた。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行つた事がない。高山といふのは、金木からまつすぐ西に三里半ばかり行き車力《しやりき》といふ人口五千くらゐのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものださうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残つてゐるくらゐのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまつてゐる。この機会に、津軽の西海岸を廻つてみようといふ計画も前から私にあつたのである。鹿の子川溜池へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、十分経つか経たぬかのうちに、木造《きづくり》駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いやうだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どつどつと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いてゐる。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。父はこの町のMといふ旧家の三男かであつたのを、私の家から迎へられて何代目かの当主になつたのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言はざるを得ない。また自作の「思ひ出」の中の一節を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにゐることがあまりなかつた。うちにゐても子供らと一緒には居らなかつた。私は此の父を恐れてゐた。父の万年筆をほしがつてゐながらそれを言ひ出せないで、ひとり色々と思ひ悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶつたまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があつたけれど、勿論それは父の耳にも心にもはひらなかつたらしい。私と弟とが米俵のぎつしり積まれたひろい米蔵に入つて面白く遊んでゐると、父が入口に立ちはだかつて、坊主、出ろ、出ろ、と叱つた。光を背から受けてゐるので父の大きい姿がまつくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟ふと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、痰フまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗つて故郷へ帰つて来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て来たのを眺めて私は美しいと思つた。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣声を聞き、さそはれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言つていいくらゐのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおつかなさを感じ、またそれゆゑ安心して寄りかかつてもゐたし、父がゐないから淋しいなどと思つた事はいちども無かつたのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いつたい父は、どんな性格の男だつたのだらう、などと無礼な忖度をしてみるやうになつて、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらはれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしてゐたのだといふ事がわかり、思ひ出の父の面影よりは少し老い疲れてゐて、私はその姿をひどくなつかしく思つたり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなつて来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のやうに感ぜられ、まづ大往生と思つてゐたのだが、いまは五十三の死歿を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考へるやうになつた。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もつともつと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考へてゐる。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育つたか、私はそれを一度見て置きたいと思つてゐたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでゐるだけだ。さうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開してゐる。水田のところどころにポプラの並木が立つてゐる。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違ひないのであるが、木造《きづくり》のポプラほど、あざやかに記憶に残つてはゐない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでゐた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違はず、華奢で頗る美人である。このやうに山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するといふ伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであらう。これも、金木地方と同様にちよつと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆ぢやないかとさへ私には疑はれた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言ふまい。こんな話は、えてして差しさはりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにはかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまつすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のやうなものが、もやもや煙つてゐて、ゴム底の靴で猫のやうに足音も無くのこのこ歩いてゐるうちに春の温気《うんき》にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造《もくざう》警察署と読んで、なるほど木造《もくざう》の建築物、と首肯き、はつと気附いて苦笑したりなどした。
 木造《きづくり》は、また、コモヒの町である。コモヒといふ
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