をとがらせて言つてゐる。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言つた。
 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もあるさうだが、米のはうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のはうは、どうも、心細いやうに、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせゐかも知れない。
「アヤたちは、どうしたでせうね。」ふつと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行つてしまつたんぢやないかしら。」アヤたちの事を、つい忘却してゐるほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまつてゐたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻してゐると、アヤが、思ひがけない傍系の野路からひよつこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしてゐた、と笑ひながら言ふ。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまつすぐにどんどん後を追つかけるやうにして行つたといふ。
「そいつあ気の毒だつたな。陽ちやんは、それぢやあ、ずいぶん遠くまで行つてしまつたらうね。おうい。」と前方に向つて大声で呼んだが、何の返辞も無い。
「まゐりませう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」
 空には雲雀がせはしく囀つてゐる。かうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらゐであらうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあつたり、小さい沼があつたり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だつたら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言つてほめたであらう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになつたものだと、しみじみ思つた。そろそろ、山の登り坂にさしかかつても、まだ姪の姿が見えない。
「どうしたのでせうね。」私は、母親ゆづりの苦労性である。
「いやあ、どこかにゐるでせう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。
「とにかく、聞いてみませう。」私は路傍の畑で働いてゐるお百姓さんに、スフの帽子をとつてお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマがとほりませんでしたか。」と尋ねた。とほつた、といふ答へである。何だか、走るやうに、ひどくいそいでとほつたといふ。春の野路を、走るやうにいそいで新郎の後を追つて行く姪の姿を想像して、わるくないと思つた。しばらく山を登つて行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑ひながら立つてゐた。ここまで追つかけて来てもゐないから、あとから来るのだらうと思つて、ここでワラビを取つてゐたといふ。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸《はつたけ》、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「敷《し》かさつてゐるほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるといふ。
「陽ちやまは、きのこ取りの名人です。」と言ひ添へた。また、山を登りながら、
「金木へ、宮様がおいでになつたさうだね。」と私が言ふと、アヤは、改まつた口調で、はい、と答へた。
「ありがたい事だな。」
「はい。」と緊張してゐる。
「よく、金木みたいなところに、おいで下さつたものだな。」
「はい。」
「自動車で、おいでになつたか。」
「はい。自動車でおいでになりました。」
「アヤも、拝んだか。」
「はい。拝ませていただきました。」
「アヤは、仕合せだな。」
「はい。」と答へて、首筋に巻いてゐるタオルで顔の汗を拭いた。
 鶯が鳴いてゐる。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いてゐる。背の低い柳、カシハも新芽を出して、さうして山を登つて行くにつれて、笹がたいへん多くなつた。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言ひたいくらゐのものであつた。私たちは立ちどまつて、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。
「これが頂上か。」私はちよつと気抜けして、アヤに尋ねた。
「はい、さうです。」
「なあんだ。」とは言つたものの、眼前に展開してゐる春の津軽平野の風景には、うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光つて見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のやうに鈍く光つてゐるのは、田光《たつぴ》沼であらうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがつてゐるのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三|潟《がた》と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合ひて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらゐのものだといふ。水は、海水の流入によつて鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでゐるといふ。湖が日本海に開いてゐる南口に、十三といふ小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であつたといふ説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、いまはその一片の面影も無いやうである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。
「これはいい。僕だつたら、ここへお城を築いて、」と言ひかけたら、
「冬はどうします?」と陽子につつ込まれて、ぐつとつまつた。
「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。
 山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかつた。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。
「蛇!」
 お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかへて腰をうかした。
「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言つた。「あの岩壁に這ひ上らうとしてゐるのです。」奔湍から首をぬつと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によぢ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるやうにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上つた。一間ばかりの木の枝を持ち、黙つて走つて行つて、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやつた。私たちは眼をそむけ、
「死んだか、死んだか。」私は、あはれな声を出した。
「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にはふり投げた。
「まむしぢやないか。」私は、それでも、まだ恐怖してゐた。
「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」
「まむしも、この山にゐるのかね。」
「はい。」
 私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。
 アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずつて来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひよいと対岸に飛び移つた。さうして、対岸の山の絶壁によぢ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めてゐる様子である。
「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくつたつて、他のところにもたくさん生えてゐるのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきつと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかさうといふ魂胆に違ひない。」
「さうよ、さうよ。」と姪も大笑ひしながら、賛成した。
「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」
「はい。」とアヤは答へて、するすると崖から降りた。私は、ほつとした。
 帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負つた。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまはない子であつた。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めつきり無口になつてしまつた。山から降りたら、郭公が鳴いてゐる。町はづれの製材所には、材木がおびただしく積まれてゐて、トロツコがたえず右往左往してゐる。ゆたかな里の風景である。
「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言つた。
「さうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂さうに、さう言つた。
 私は急にてれて、
「いやあ、僕なんかには、何もわかりやしませんけど、でも、十年前の金木は、かうぢやなかつたやうな気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のやうに見えました。いまのやうぢやなかつた。いまは何か、もりかへしたやうな感じがします。」
 家へ帰つて兄に、金木の景色もなかなかいい、思ひをあらたにしました、と言つたら、兄は、としをとると自分の生れて育つた土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思はれて来るものです、と答へた。
 翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はつて、金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池といふところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といふいでたちであつた。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとつて、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかつた。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来てゐて、甚だ歩きにくかつた。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いてゐた。お天気がよすぎると、旅人はぐつたりなつて、かへつて意気があがらぬもののやうである。
「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまつて説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思はせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱してゐる。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言つてゐるほどの大洪水がこの金木町を襲つたのである。
「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言つて、アヤは悲しさうな顔をした。
「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のやうだつたらうね。」
「海のやうでした。」
 金木川にわかれて、こんどは鹿《か》の子川に沿うてしばらくのぼり、やつと森林鉄道の軌道から解放されて、ちよつと右へはひつたところに、周囲半里以上もあるかと思はれる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛へてゐる。この辺は、荘右衛門沢といふ深い谷間だつたさうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作つたのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれてゐた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出してゐるので、所謂天然の荘厳を欠いてはゐるが、しかし、金木といふ一部落の力が感ぜられ、このやうな人為の成果といふものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おつちよこちよいの旅の批評家は、
前へ 次へ
全23ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング