無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。
 慎しまうと思ひながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言つてゐるのか、わからない場合が多い。嘘を言つてゐる事さへある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
 その夜は、しかし、私はそのやうな下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは
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