ないけれども、宿賃が、おやと思ふほど高くなかつたら幸ひである。これは明らかに私の言ひすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、さうして貧しい芸術家の小さい勘《かん》でものを言つてゐるだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと思はれる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にゐて浅墓の幻影に酔はせた事があるのではあるまいかといふ疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思ひ出の温泉地を汽車で通過しながら、敢へて下車しなかつたといふだけの話なのである。
津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉よりも、スキイ場のために
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