も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジヤンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかへされてしまふ。絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。ゴンチヤロフであつたか、大洋を航海して時化《しけ》に遭つた時、老練の船長が、「まあちよつと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでせう。あなたがた文学者は、きつとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与へて下さるに違ひない。」ゴンチヤロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」
大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらゐで竜飛に着くといふ頃に、私は幽かに笑ひ、
「こりやどうも、やつぱりお酒を残して置いたはうがよかつたね。竜飛の宿に、お酒があるとは思へないし、どうもかう寒くてはね。」と思ばず愚痴をこぼした。
前へ
次へ
全228ページ中123ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング