兵のT君は、暑い暑いと言つて上衣を脱ぎ半裸体になつて立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭ひで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちよつとビルマのバーモオ長官に似てゐた。その日、集つた人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しづつ相違があつたやうであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいやうな素振りを見せた。私は問はれただけの事は、ハツキリ答へた。「問に答へざるはよろしからず。」といふれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがつたわけであるが、しかし、他のもつと重大な箇条には見事にそむいてしまつた。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やつちやつた。芭蕉だつて、他門の俳諸の悪口は、チクチク言つたに違ひないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどといふあさましい事はしなかつたであらう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振舞ひをしてしまつたのである。日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問はれて、私は、そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういふわけか、畏敬に近「くらゐの感情で東京の読書人にも迎へられてゐる様子で、神様、といふ妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになるといふへんな風潮さへ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引きだふしと言ふもので、その作家は大いに迷惑して苦笑してゐるのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従ふ事は出来なかつた。さうして、このごろに到つて、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。かへつて、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思つたくらゐであつた。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取つた一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたふしである。貴族といふものは、だらしないくらゐ闊達なものではないかと思はれる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑つて矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪ひとり、自分でそれをひよいとかぶつて、フランス万歳、と叫んだ。血に飢ゑたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思はず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このやうな無邪気なつくろはぬ気品があるものだ。口をひきしめて襟元をかき合せてすましてゐるのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あはれな言葉を使つちやいけない。
 その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、たうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破つて、そのやうな悪口を言ひ、言ひはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になつて、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまつた。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかつた。「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言つてはゐません。」と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのやうにして言つた。酔漢の放言に閉口し切つてゐるといふやうなふうに見えた。他の人たちも、互ひに顔を見合せてにやにや笑つてゐる。
「要するに、」私の声は悲鳴に似てゐた。ああ、先輩作家の悪口は言ふものでない。「男振りにだまされちやいかんといふ事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だつたんだ。」いよいよ脱線するばかりである。
「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはつきり宣言する。
「日本ぢや、あの人の作品など、いいはうなんでせう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りな
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