ちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もつと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思つた。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になつてゐる。沼が見える。芦の湖といふ名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。すぐに、中里に着く。人口、四千くらゐの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟《うちがた》、相内《あひうち》、脇元《わきもと》などの部落に到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門とセつていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸《かなまる》といふ親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらゐの時であらうか、村のはづれの滝の他には、何も記憶に残つてゐない。
「修つちやあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑ひながら立つてゐる。私より一つ二つ年上だつた筈であるが、あまり老けてゐない。
「久し振りだなう。どこへ。」
「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢ひたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それぢやあ、失敬。」
「さう。帰りには、うちへも寄つて下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」
指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立つてゐる。たけの事さへ無かつたら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきつと立寄らせていただき、ゆつくり中里の話でも伺つたのに違ひないが、何せ一刻を争ふみたいに意味も無く気がせいてゐたので、
「ぢや、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さつさとバスに乗つてしまつた。バスは、かなり込んでゐた。私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は、この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしつかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やつぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂ひが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きてゐる。東海岸の竜飛などに較べると、ずつと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて、さうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまひになつてゐるのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のやうに、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞ひもどつてこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまつたといふわけなのである。ここは人口二千五百くらゐのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通ひの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはひつて仮泊する事になつてゐたといふ。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行はれた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合ひなくらゐ立派である。水田は、村のはづれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なやうで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブAワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。
「越野たけ、といふ人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなからうかと思はれるやうな中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野といふ苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わ
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