のは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞつて店先に日よけの天幕を張つたらう、さうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しさうな顔をして歩いたらう、さうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思つたらう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作つてあるのが、北国のコモヒだと思へば、たいして間違ひは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作つたのではない。そんな、しやれたものではない。冬、雪が深く積つた時に、家と家との聯絡に便利なやうに、各々の軒をくつつけ、長い廊下を作つて置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買ひ物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のやうな危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとつて大助かりだらうし、また、私のやうに、春の温気にまゐつた旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐つてゐる人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒといふのは、小店《こみせ》の訛りであると一般に信じられてゐるやうだが、私は、隠瀬《このせ》あるいは隠日《こもひ》とでもいふ漢字をあてはめたはうが、早わかりではなからうか、などと考へてひとりで悦にいつてゐる次第である。そのコモヒを歩いてゐたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとほり過ぎて、やはりコモヒをまつすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考へた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒといふものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依つて貫通せられてゐるといつたやうなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまつた。しばらく歩いて、やうやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Mの家に行つた事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあつたかも知れないが、いまの私の記憶には何も残つてゐない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちよいちよい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たづねて行つても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかしA私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑つて声をかけたら、Mさんはぎよつとして、こいついよいよ東京を食ひつめて、金でも借りに来たんぢやないか、などと思やすまいか。死ぬまへにいちど、父の生れた家を見たくて、といふのも、おそろしいくらゐに気障《きざ》だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言へたもんぢやない。いつそこのまま帰らうか、などと悶えて歩いてゐるうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまはない。はひらう。私は、とつさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のはうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢ひで私には何も言はせず、引つぱり上げるやうに座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまつた。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言ひつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かつた。
「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらゐです。」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらゐでせう。」
「さうだらうとも、さうだらうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」
この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似てゐる。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだといふ話を聞いてゐるが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるやうな気がして、微笑ましかつた。さう思つて見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似てゐる。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたやうな気がして、このMさんのお家へ立寄つた甲斐があつたと思つた。Mさんは、何かと私をもてなさうとする。
「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」
「深浦へ? 何しに?」
「べつに、どうつてわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。」
「書くのか?」
「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるやうな事は言へなかつた。
「ぢやあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだつたらね、」とMさ
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