たもののやうに空想せられ、うらやましくさへなつて来た。
「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言つた。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふつと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざつぱりして、気品があつた。手足が荒れてゐない感じなのである。
「さうかね。さう言へば、さうだね。」N君ほど、女にあつさりしてゐる人も少い。ただ、もつぱら、酒である。
「まさか、いま、義経だと言つて名乗つたつて、信じないだらうしね。」私は馬鹿な事を空想してみた。
 はじめは、そんなたわいない事を言ひ合つて、ぶらぶら歩いてゐたのだが、だんだん二人の歩調が早くなつて来た。まるで二人で足早《あしばや》を競つてゐるみたいな形になつて、さうして、めつきり無口になつた。三厩の酒の酔ひが醒めて来たのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛な顔になつて、せつせと歩いた。浜風が次第に勁くなつて来た。私は帽子を幾度も吹き飛ばされさうになつて、その度毎に、帽子の鍔をぐつと下にひつぱり、たうとうスフの帽子の鍔の附根が、びりりと破れてしまつた。雨が時々、ぱらぱら降る。真黒い雲が低く空を覆つてゐる。波のうねりも大きくなつて来て、海岸伝ひの細い路を歩いてゐる私たちの頬にしぶきがかかる。
「これでも、道がずいぶんよくなつたのだよ。六、七年前は、かうではなかつた。波のひくのを待つて素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあつたのだからね。」
「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」
「さう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」
 私たちは真面目な顔をしてそんな事を言ひ、尚もせつせと歩いた。
「疲れないか。」N君は振返つて言つた。「案外、健脚だね。」
「うん、未だ老いずだ。」
 二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジヤンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかへされてしまふ。絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。ゴンチヤロフであつたか、大洋を航海して時化《しけ》に遭つた時、老練の船長が、「まあちよつと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでせう。あなたがた文学者は、きつとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与へて下さるに違ひない。」ゴンチヤロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」
 大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらゐで竜飛に着くといふ頃に、私は幽かに笑ひ、
「こりやどうも、やつぱりお酒を残して置いたはうがよかつたね。竜飛の宿に、お酒があるとは思へないし、どうもかう寒くてはね。」と思ばず愚痴をこぼした。
「いや、僕もいまその事を考へてゐたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合ひの家があるんだが、ひよつとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」
「当つてみてくれ。」
「うん、やつぱり酒が無くちやいけない。」
 竜飛の一つ手前の部落に、その知合ひの家があつた。N君は帽子を脱いでその家へはひり、しばらくして、笑ひを噛み殺してゐるやうな顔をして出て来て、
「悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらつて来た。五合以上はある。」
「燠《おき》が残つてゐたわけだ。行かう。」
 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。
「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばか
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