きりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかつたが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くN君の家へ引上げて、一寝入りしたかつた。Sさんのお家へ行つて、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるやうな結果になるのではあるまいかと思へばなほさら気が重かつた。私は、れいに依つてT君の顔色を伺つた。T君が行けと言へば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟してゐた。T君は、真面目な顔をしてちよつと考へ、
「行つておやりになつたら? Sさんは、けふは珍らしくひどく酔つてゐるやうですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待つてゐたのです。」
私は行く事にした。頭の鉢にこだはる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおつしやつたのに違ひないと思ひ直した。どうも、容貌に自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けてゐるものは「自信」かも知れない。
Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Sさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買つて来い。待て。その縁側にかけてある干鱈《ひだら》をむしつて、待て、それは金槌《かなづち》でたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに、あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。おい、醤油を持つて来い。干鱈には醤油をつけなくちや駄目だ。コツプが一つ、いや二つ足りない。早く持つて来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらふんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいてゐるといふんでせう。あなたの頭の形に似てゐると思ふんですがね。しめたものです。おい、坊やをあつちへ連れて行け。うるさくてかなはない。お客さん
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