はせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。いま思へば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持つて近くの山へ遊びに行つた。「思ひ出」といふ私の初期の小説の中に出て来る「友人」といふのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかつた。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思ふより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服してゐた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなつて帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んセけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であつた。芭蕉翁の行脚掟として世に伝へられてゐるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、といふ一箇条があつたやうであるが、あの、論語の酒無量
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