いやうな食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かつた筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。
蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。
「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人《おとな》」の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞いてゐたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
N君は、ほつとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」
「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」
「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。
「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」
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何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪|逓《たがひ》に相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時|一盞《いつさん》無くんば、何を以てか平生を叙せん。 (白居易)
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私は、中学時代には、よその家へ遊びに行つた事は絶無であつたが、どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿してゐた。私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。さうして、帰りには裏路の、海岸伝ひにぶらぶら歩いて、雨が降つても、あわてて走つたりなど
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