いた。T君が駅に迎へに来てゐた。私が前もつて手紙で知らせて置いたのである。
「和服でおいでになると思つてゐました。」
「そんな時代ぢやありません。」私は努めて冗談めかしてさう言つた。
 T君は、女のお子さんを連れて来てゐた。ああ、このお子さんにお土産を持つて来ればよかつたと、その時すぐに思つた。
「とにかく、私の家へちよつとお寄りになつてお休みになつたら?」
「ありがたう。けふおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行かうと思つてゐるんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになつてゐるやうです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、といふ私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこつて、さうして鉄瓶には一本お銚子がいれられてゐた。
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまつて私にお辞儀をして、「ビールのはうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が。」私は低く咳ばらひした。
 T君は昔、私の家にゐた事がある。おもに鶏舎の世話をしてゐた。私と同じとしだつたので、仲良く遊んだ。「女中たちを呶鳴り散らすところが、あれの悪いやうな善いやうなところだ。」とその頃、祖母がT君を批評して言つたのを私は聞いて覚えてゐる。のちT君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり信頼されてゐた様子である。先年出征して、南方の孤島で戦ひ、病気になつて昨年帰還し、病気をなほしてまた以前の病院につとめてゐるのである。
「戦地で一ばん、うれしかつた事は何かね。」
「それは、」T君は言下に答へた。「戦地で配給のビールをコツプに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しづつ吸ひ込んで、途中でコツプを唇から離して一息つかうと思つたのですが、どうしてもコツプが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」
 T君もお酒の好きな人であつた。けれども、いまは、少しも飲まない。さうして時々、軽く咳をしてゐる。
「どうだね、からだのはうは。」T君はずつと以前に一度、肋膜を病んだ事があつて、こんどそれが戦地で再発したのである。
「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみな
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