な顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらゐに、ひどくふけてゐた。昨年、病気をなさつて、それから、こんなに痩せたのださうである。
「時代だぢやあ。あんたが、こんな姿で東京からやつて来るやうになつたものなう。」と、それでも嬉しさうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れてゐるな。」と言つて、自分で立つて箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
「これから、ハイカラ町《ちやう》へ行きたいと思つてるんだけど。」
「あ、それはいい。行つていらつしやい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めつきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町といふ名前であつたのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のやうである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思ひ出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のやうな随筆を発表した。
「叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だつたと思ひます。たしか、左右衛門だつた筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思はず立ち上つてしまつた程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はつきり見えました。映写室から発火したといふ話でした。さうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問はれました。過失傷害致死とかいふ罪名でした。子供心にも、どういふわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭《あさひ》座といふ名前が『火《ひ》』の字に関係があるから焼けたのだといふ噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあつたのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちやうど古着屋のまへでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でし
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