重くらゐのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなつて来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなつて来た。
「あそこにありまする大きな見事な額《がく》は、その大野九郎兵衛様のお書きになつた額でございます。」
「さやうでございますか。」とN君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、――」
「ご存じでございませう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言つたやうである。「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになつたのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたさうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、――」
 Mさんはこの時たうとう立ち上り、おかみさんの前に行つて、内ポケツトから白紙に包んだものを差出し、黙つて丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向つて、
「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言つた。
「はあ、いや、帰りませう。」とN君は鷹揚に言ひ、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言つて、やうやく立ち上つたのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶してゐないといふ。私たちは呆れて、
「あんなに情熱的にいろんな質問を発してゐたぢやないか。」と言ふと、
「いや、すべて、うはのそらだつた。何せ、ひどく酔つてたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだらうと思つて、がまんして、あのおかみの話相手になつてやつてゐたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。
 三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけてゐた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらゐ上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでゐる。
「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆつくり飲まう。」私はリユツクサツクから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持つて来て下さい。」
 この女中さんは、あまり悧巧でないやうな顔をしてゐて、ただ、はあ、とだけ言つて、ぼんやりその包を受取つて部屋から出て行つた。
「わかりましたか。」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであらう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言つて、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三
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