やと思はれるくらゐであつた。
Mさんが来た。はにかんで笑ひながら、
「さ、どうぞ。」と言ふ。
「いや、さうしても居られないんです。」とN君は腰をあげて、「船が出るやうだつたら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思つてゐるのです。」
「さう。」Mさんは軽く首肯き、「ぢやあ、出るかどうか、ちよつと聞いて来ます。」
Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行つてくれたのだが、船はやはり欠航といふ事であつた。
「仕方が無い。」たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、「それぢや、ここでちよつと休ませてもらつて弁当を食べるか。」
「うん、ここで腰かけたままでいい。」私はいやらしく遠慮した。
「あがりませんか。」Mさんは気弱さうに言ふ。
「あがらしてもらはうぢやないか。」N君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆつくり、次の旅程を考へませう。」
私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があつて、炭火がパチパチ言つておこつてゐた。書棚には本がぎつしりつまつてゐて、ヴアレリイ全集や鏡花全集も揃へられてあつた。「礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到つて或いは失神するかも知れない。
「お酒は、あります。」上品なMさんは、かへつてご自分のはうで顔を赤くしてさう言つた。「飲みませう。」
「いやいや、ここで飲んでは、」と言ひかけて、N君は、うふふと笑つてごまかした。
「それは大丈夫。」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取つて置いてありますから。」
「ほほ、」とN君は、はしやいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、けふのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも、」などと言つてゐるうちに、奥さんが黙つてお銚子を持つて来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであつて、別に僕たちに対して怒つてゐるのでは無いかも知れない、と私は自分に都合のいいやうに考へ直し、
「それぢや酔はない程度に、少し飲まうか。」とN君に向つて提案した。
「飲んだら酔ふよ。」N君は先輩顔で言つて、「けふは、これあ、三厩泊りかな?」
「それがいいでせう。けふは今別でゆつくり遊んで、三厩までだつたら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔つてたつて楽に行けます。」とMさんもすすめる。けふは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。
私には、この部屋へ
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