と吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いひならはしにて忌嫌ふのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌ふ。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいふ事ぞと委敷尋ね問ふに、当国岩城山の神と云ふは、安寿姫《あんじゆひめ》出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひて、三庄《さんしやう》太夫にくるしめられしゆゑ、今に至り、其国の人といへば忌嫌ひて風雨を起し岩城の神荒れ玉ふとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願ふ。然るに、差当りたる天気にさはりあることなれば、一国こぞつて丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多くは丹後人を忌みて送り出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。」
 へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめに遭はなければならなかつたわけである。安寿姫と厨子王《づしわう》の話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされてゐるし、また鴎外の傑作「山椒大夫」の事は、小説の好きな人なら誰でも知つてゐる。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、さうして死後岩木山に祭られてゐるといふ事は、あまり知られてゐないやうであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思つてゐるのである。義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでゐるとか、石の色が溶けて川の水も魚の鱗も赤いとかといふことを、平気で書いてゐる南谿氏の事だから、これも或いはれいの「強ひて其事の虚実を正さず」式の無責任な記事かも知れない。もつとも、この安寿厨子王津軽人説は、和漢三才図会の岩城山権現《いはきさんごんげん》の条にも出てゐる。三才図会は漢文で少し読みにくいが、「相伝ふ、昔、当国(津軽)の領主、岩城判官正氏といふ者あり。永保元年の冬、在京中、讒者の為に西海に謫せらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよひ、出羽を過ぎ、越後に到り直江の浦云々。」などと自信ありげに書き出して
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