《ひしょう》して、疲れると帰帆の檣上《しょうじょう》にならんで止って翼を休め、顔を見合わせて微笑《ほほえ》み、やがて日が暮れると洞庭秋月|皎々《こうこう》たるを賞しながら飄然《ひょうぜん》と塒《ねぐら》に帰り、互に羽をすり寄せて眠り、朝になると二羽そろって洞庭の湖水でぱちゃぱちゃとからだを洗い口を嗽《すす》ぎ、岸に近づく舟をめがけて飛び立てば、舟子どもから朝食の奉納があり、新婦の竹青は初《う》い初《う》いしく恥じらいながら影の形に添う如くいつも傍にあって何かと優しく世話を焼き、落第書生の魚容も、その半生の不幸をここで一ぺんに吹き飛ばしたような思いであった。
その日の午後、いまは全く呉王廟の神烏の一羽になりすまして、往来の舟の帆檣にたわむれ、折から兵士を満載した大舟が通り、仲間の烏どもは、あれは危いと逃げて、竹青もけたたましく鳴いて警告したのだけれども、魚容の神烏は何せ自由に飛翔できるのがうれしくてたまらず、得意げにその兵士の舟の上を旋回《せんかい》していたら、ひとりのいたずらっ児《こ》の兵士が、ひょうと矢を射てあやまたず魚容の胸をつらぬき、石のように落下する間一髪、竹青、稲妻《いなずま》の如く迅速に飛んで来て魚容の翼を咥《くわ》え、颯《さっ》と引上げて、呉王廟の廊下に、瀕死《ひんし》の魚容を寝かせ、涙を流しながら甲斐甲斐《かいがい》しく介抱《かいほう》した。けれども、かなりの重傷で、とても助からぬと見て竹青は、一声悲しく高く鳴いて数百羽の仲間の烏を集め、羽ばたきの音も物凄《ものすご》く一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面を煽《あお》って大浪を起し忽《たちま》ち舟を顛覆《てんぷく》させて見事に報讐《ほうしゅう》し、大烏群は全湖面を震撼《しんかん》させるほどの騒然たる凱歌《がいか》を挙げた。竹青はいそいで魚容の許《もと》に引返し、その嘴を魚容の頬にすり寄せて、
「聞えますか。あの、仲間の凱歌が聞えますか。」と哀慟《あいどう》して言う。
魚容は傷の苦しさに、もはや息も絶える思いで、見えぬ眼をわずかに開いて、
「竹青。」と小声で呼んだ、と思ったら、ふと眼が醒《さ》めて、気がつくと自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で呉王廟の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前の楓《かえで》の林を照らして、そこには数百の烏が無心に唖々と鳴いて遊んでいる。
「気がつきましたか。」と農夫の身なりをした爺《じじい》が傍に立っていて笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」
「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に眼を醒まさない。肩をつかんでゆすぶっても、ぐたりとしている。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、眼の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色もよくないが、どこか病気か。」
「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっとも空《す》いていない。「すみませんでした。」とれいのあやまり癖が出て、坐り直して農夫に叮嚀《ていねい》にお辞儀をして、「お恥かしい話ですが、」と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。
農夫は憐《あわ》れに思った様子で、懐《ふところ》から財布《さいふ》を取出しいくらかの金を与え、
「人間万事|塞翁《さいおう》の馬。元気を出して、再挙を図《はか》るさ。人生七十年、いろいろさまざまの事がある。人情は飜覆《ほんぷく》して洞庭湖の波瀾《はらん》に似たり。」と洒落《しゃれ》た事を言って立ち去る。
魚容はまだ夢の続きを見ているような気持で、呆然《ぼうぜん》と立って農夫を見送り、それから振りかえって楓の梢にむらがる烏を見上げ、
「竹青!」と叫んだ。一群の烏が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛びまわり、それからまっすぐに湖の方へいそいで行って、それっきり、何の変った事も無い。
やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きい溜息《ためいき》をついて、力無く故土に向けて発足する。
故郷の人たちは、魚容が帰って来ても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく伯父の家の庭石の運搬を魚容に命じ、魚容は汗だくになって河原から大いなる岩石をいくつも伯父の庭先まで押したり曳《ひ》いたり担《かつ》いだりして運び、「貧して怨《えん》無きは難し」とつくづく嘆じ、「朝《あした》に竹青の声を聞かば夕《ゆうべ》に死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇《はげ》しく懐慕せられるのである。
伯夷叔斉《はくいしゅくせい》は旧悪を念《おも》わず
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