として敬愛し、羊の肉片など投げてやるとさっと飛んで来て口に咥《くわ》え、千に一つも受け損ずる事は無い。落第書生の魚容は、この使い烏の群が、嬉々《きき》として大空を飛び廻っている様をうらやましがり、烏は仕合せだなあ、と哀れな細い声で呟《つぶや》いて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし。」と黒衣の男にゆり起されたのである。
魚容は未だ夢心地で、
「ああ、すみません。叱《しか》らないで下さい。あやしい者ではありません。もう少しここに寝かせて置いて下さい。どうか、叱らないで下さい。」と小さい時からただ人に叱られて育って来たので、人を見ると自分を叱るのではないかと怯《おび》える卑屈な癖が身についていて、この時も、譫言《うわごと》のように「すみません」を連発しながら寝返りを打って、また眼をつぶる。
「叱るのではない。」とその黒衣の男は、不思議な嗄《しわが》れたる声で言って、「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるというお言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた。
たちまち、魚容は雄《おす》の烏。眼をぱちぱちさせて起き上り、ちょんと廊下の欄干《らんかん》にとまって、嘴《くちばし》で羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応《きょうおう》にあずかっている数百の神烏《しんう》にまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手《じょうず》に嘴に受けて、すぐにもう、生れてはじめてと思われるほどの満腹感を覚え、岸の林に引上げて来て、梢《こずえ》にとまり、林に嘴をこすって、水満々の洞庭の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風|飜《ひるがえ》す黄金浪花千片か」などと所謂《いわゆる》君子|蕩々然《とうとうぜん》とうそぶいていると、
「あなた、」と艶《えん》なる女性の声がして、「お気に召しまして?」
見ると、自分と同じ枝に雌《めす》の烏が一羽とまっている。
「おそれいります。」魚容は一揖《いちゆう》して、「何せどうも、身は軽くして泥滓《でいし》を離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。
「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」
「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
「いやじゃないが、」魚容は狼狽《ろうばい》して、「乃公《おれ》にはちゃんと女房があります。浮気は君子の慎しむところです。あなたは、乃公を邪道に誘惑しようとしている。」と無理に分別顔を装うて言った。
「ひどいわ。あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの? ひどいわ。これはみな呉王さまの情深いお取りはからいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは呉王さまから言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さんの事なんか忘れてしまってもいいのよ。あなたの奥さんはずいぶんお優しいお方かも知れないけれど、あたしだってそれに負けずに、一生懸命あなたのお世話をしますわ。烏の操《みさお》は、人間の操よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをお傍に置いて下さいな。あたしの名前は、竹青というの。」
魚容は情に感じて、
「ありがとう。乃公も実は人間界でさんざんの目に遭《あ》って来ているので、どうも疑い深くなって、あなたの御親切も素直に受取る事が出来なかったのです。ごめんなさい。」
「あら、そんなに改まった言い方をしては、おかしいわ。きょうから、あたしはあなたの召使いじゃないの。それでは旦那《だんな》様、ちょっと食後の御散歩は、いかがでしょう。」
「うむ、」と魚容もいまは鷹揚《おうよう》にうなずき、「案内たのむ。」
「それでは、ついていらっしゃい。」とぱっと飛び立つ。
秋風|嫋々《じょうじょう》と翼を撫《な》で、洞庭の烟波《えんぱ》眼下にあり、はるかに望めば岳陽の甍《いらか》、灼爛《しゃくらん》と落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐《かれん》一点の翠黛《すいたい》を描いて湘君《しょうくん》の俤《おもかげ》をしのばしめ、黒衣の新夫婦は唖々《ああ》と鳴きかわして先になり後になり憂《うれ》えず惑わず懼《おそ》れず心のままに飛翔
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