創作余談
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)編輯者《へんしゅうしゃ》
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創作余談、とでもいったものを、と編輯者《へんしゅうしゃ》からの手紙にはしるされて在った。それは多少、てれくさそうな語調であった。そう言われて、いよいよてれくさいのは、作者である。この作者は、未だほとんど無名にして、創作余談とでもいったものどころか、創作それ自体をさえ見失いかけ、追いかけ、思案し、背中むけ、あるいは起き直り、読書、たちまち憤激、巷《ちまた》を彷徨《ほうこう》、歩きながら詩一篇などの、どうにもお話にならぬ甘ったれた文学書生の状態ゆえ、創作余談、はいそうですか、と、れいの先生らしい苦心談もっともらしく書き綴る器用の真似はできぬのである。
できるようにも思うのであるが、私は、わざと、できぬ、という。無理にも、そう言う。文壇常識を破らなければいけないと頑固に信じているからである。常識は、いいものである。これには従わなければいけない。けれども常識は、十年ごとに飛躍する。私は、人の世の諸現象の把握《はあく》については、ヘエゲル先生を支持する。
ほんとうは、マルクス、エンゲルス両先生を、と言いたいところでもあろうが、いやいや、レニン先生を、と言いたいところでもあろうが、この作者、元来、言行一致ということに奇妙なほどこだわっている男で、いやいや、そう言ってもいけない、この作者、元来、非惨を愛する趣味家であって、安心立命の境地を目して、すべて崩壊の前提となし、ああ、あとの言葉は、諸兄のうち、心ある者、つづけ給え。
このように、作者は、ものぐさである。ずるい。煮ても焼いても食えない境地にまで達しているようである。憎いか?
憎いことはないだろう。私は、いまのこの世の中に最も適した表現を以て、諸兄に話かけているだけなのである。私は、いまのこの現実を愛する。冗談から駒の出る現実を。
判るかね? 不愉快かね?
君自身、おのれの不愉快な存在であることに気づかなければいけない。君は、無力だ。
非難は、自身の弱さから。いたわりは、自身の強さから。恥じるがいい。
自己弁解でない文章を読みたい。
作家というものは、ずいぶん見栄坊であって、自分のひそかに苦心した作品など、苦心しなかったようにして誇示したいものだ。
私は、私の最初の短篇集『晩年』二百四十一頁
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