叱ったり、とにかく、その時の私の心境は、全然なっていなかったのである。ただ、そわそわして落ちつかず、絶えず身体をゆらゆら左右に動かして、酒ばかり呑んでいるのである。酒はおびただしく、からだに廻って全身かっかと熱く、もはや頭から湯気が立ち昇るほどになっていた。
自己紹介がはじまっている。皆、有名な人ばかりである。日本画家、洋画家、彫刻家、戯曲家、舞踏家、評論家、流行歌手、作曲家、漫画家、すべて一流の人物らしい貫禄《かんろく》を以《もっ》て、自己の名前を、こだわりなく涼しげに述べ、軽い冗談なども言い添える。私はやけくそで、突拍子ない時に大拍手をしてみたり、ろくに聞いてもいない癖に、然《しか》りとか何とか、矢鱈《やたら》に合槌打ってみたり、きっと皆は、あの隅のほうにいる酔っぱらいは薄汚いやつだ、と内心不快、嫌悪の情を覚え、顰蹙《ひんしゅく》なされていたに違いない。私は、それを知っていたが、どうにも意志のブレーキが、きかないのである。自己紹介が、めぐりめぐって、だんだん順番が、末席のほうに近くなって来た。今に私の番になったら、私はこんな状態で、一体なんと言って挨拶したらいいのか。こんなに取乱してしまって、大演説なぞは、思いも寄らぬ事である。いよいよ酔漢の放言として、嘲笑されるくらいのところであろう。唐突に、雪溶けの小川が眼に浮ぶ。岸に、青々と芹《せり》が。あああ、私には言いたい事があるのだ。山々あったのである。けれども、急に、いやになった。なぜか、いやになった。いいのだ。私は永久に故郷に理解されないままで終っても、かまわないのだ。あきらめたのだ。衣錦還郷を、あきらめた。酔いがぐるぐる駈けめぐっている動乱の頭脳で、それでも、あれこれ考え悩み、きょうは、どうも、ごちそうさまでした、と新聞社の人にお礼を言って、それだけで引きさがろうと態度をきめた。その時の私の心で一ばん素直に、偽りなく言える言葉は、ただそのお礼だけであったのだ。けれども、とまた考えて、ごちそうさまでした、とだけ言って、それで引きさがるのは、なんだか、ふだん自分の銭《ぜに》でお酒を呑めない実相を露悪しているようで、賤《いや》しくないか、よせよせという内心の声も聞えて、私は途方に暮れていた。私の番が、来た。私は、くにゃくにゃと、どやしつけてやりたいほど不潔な、醜女の媚態を以て立ち上り、とっさのうちに考えた。Dの名前は出したくない。Dって、なんだいと馬耳東風、軽蔑されるに違いない。私の作品が可哀そうだ、読者にすまない。K町の辻馬の末弟です。と言えば、母や兄に赤恥かかせることになる、それにいま長兄は故郷の或る事件で、つらい大災厄に遭っているのを、私は知っている。私の家は、この五、六年、私の不孝ばかりでは無く、他の事でも、不仕合せの連続の様子なのである。おゆるし下さい。
「K町の、辻馬……」というには言った積りなのであるが、声が喉《のど》にひっからまり、殆ど誰にも聞きとれなかったに違いない。
「もう、いっぺん!」というだみ声が、上席のほうから発せられて、私は自分の行きどころの無い思いを一時にその上席のだみ声に向けて爆発させた。
「うるせえ、だまっとれ!」と、確かに小声で言った筈なのだが、坐ってから、あたりを見廻すと、ひどく座が白けている。もう、駄目なのである。私は、救い難き、ごろつきとして故郷に喧伝《けんでん》されるに違いない。
その後の私の汚行に就いては、もはや言わない。ぬけぬけ白状するということは、それは、かえって読者に甘えている所以《ゆえん》だし、私の罪を、少しでも軽くしようと計る卑劣な精神かも知れぬし、私は黙って怺《こら》えて、神のきびしい裁きを待たなければならぬ。私が、悪いのだ。持っている悪徳のすべてを、さらけ出した。帰途、吉祥寺駅から、どしゃ降りの中を人力車に乗って帰った。車夫は、よぼよぼの老爺である。老爺は、びしょ濡れになって、よたよた走り、ううむ、ううむと苦しげに呻《うめ》くのである。私は、ただ叱った。
「なんだ、苦しくもないのに大袈裟に呻いて、根性が浅間《あさま》しいぞ! もっと走れ!」私は悪魔の本性を暴露していた。
私は、その夜、やっとわかった。私は、出世する型では無いのである。諦めなければならぬ。衣錦還郷のあこがれを、此《こ》の際はっきり思い切らなければならぬ。人間到るところに青山、と気をゆったり持って落ちつかなければならぬ。私は一生、路傍の辻音楽師で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。
あくる日、洋画を勉強している一友人が、三鷹の此の草舎に訪れて来て、私は、やがて前夜の大失態に就いて語り、私の覚悟のほども打ち明けた。この友人もまた、瀬戸内海の故郷の
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