》に四年連続の豊作を迎えようとしています、と言われて、私もやはり津軽の子である。ふらふら、出席、と書いてしまった。眼のまえに浮ぶのである。ふるさとの山河が浮ぶのである。私は、もう十年も故郷を見ない。八年まえの冬、考えると、あの頃も苦しかったが、私は青森の検事局から呼ばれて、一人こっそり上野から、青森行の急行列車に乗り込んだことがある。浅虫温泉の近くで夜が明け、雪がちらちら降っていて、浅虫の濃灰色の海は重く蜒《うね》り、浪がガラスの破片のように三角の形で固く飛び散り、墨汁を流した程に真黒い雲が海を圧しつぶすように低く垂れこめて、嗟《ああ》、もう二度と来るところで無い! とその時、覚悟を極めたのだ。青森へ着いて、すぐに検事局へ行き、さまざま調べられて、帰宅の許可を得たのは夜半であった。裁判所の裏口から、一歩そとへ出ると、たちまち吹雪が百本の矢の如く両頬に飛来し、ぱっとマントの裾《すそ》がめくれあがって私の全身は揉《も》み苦茶にされ、かんかんに凍った無人の道路の上に、私は、自分の故郷にいま在りながらも孤独の旅芸人のような、マッチ売りの娘のような心細さで立ち竦《すく》み、これが故郷か、これが、あの故郷か、と煮えくり返る自問自答を試みたのである。深夜、人っ子ひとり通らぬ街路を、吹雪だけが轟々の音を立て白く渦巻き荒れ狂い、私は肩をすぼめ、からだを斜めにして停車場へ急いだ。青森駅前の屋台店で、支那そば一ぱい食べたきりで、そのまま私は上野行の汽車に乗り、ふるさとの誰とも逢わず、まっすぐに東京へ帰ってしまったのだ。十年間、ちらと、たった一度だけ見たふるさとは、私にこんなに、つらかった。いまは、何やら苦しみに呆け、めっきり弱くなっているので、「黄金の波、苹果の頬。」という甘い言葉に乗せられ、故郷へのむかしの憎悪も、まるで忘れて、つい、うかうか、出席、と書いてしまった。それが、理由の三つ。
出席、と返事してしまってから、私は、日ましに不安になった。それは、「出世」という想念に就《つ》いてであった。故郷の新聞社から、郷土出身の芸術家として、招待を受けるということは、これは、衣錦還郷《いきんかんきょう》の一種なのではあるまいか。ずいぶん、名誉なことなのでは無いか。名士、というわけのことになるのかも知れぬ、と思えば卒然、狼狽せずには居られなかったのである。沢山の汚名を持つ私を、たちの悪い、いたずら心から、わざと鄭重に名士扱いにして、そうして、蔭で舌を出して互に目まぜ袖引き、くすくす笑っている者たちが、確かに襖《ふすま》のかげに、うようよ居るように思われ、私は頗《すこぶ》る落ちつかなかったのである。故郷の者は、ひとりも私の作品を読まぬ。読むとしても、主人公の醜態を行っている描写の箇所だけを、憫笑《びんしょう》を以《もっ》て拾い上げて、大いに呆れて人に語り、郷里の恥として罵倒、嘲笑しているくらいのところであろう。四年まえ、東京で長兄とちょっと逢った時にも長兄は、おまえの本を親戚の者たちへ送ることだけは止せ。おれだって読みたくない。親戚の者たちは、おまえの本を読んで、どんなことを、と言いかけ、ふっと口を噤《つぐ》んで顔を伏せたきりだったけれど、私には、すべての情勢が、ありありと判った。もう死ぬまで一冊も、郷里の者へ、本を送らぬつもりである。郷土出身の文学者だって、甲野嘉一君を除いては、こぞって私を笑っている。文学に縁の無い、画家、彫刻家たちも、ときたま新聞に出る私の作品への罵言を、そのまま気軽に信じて、利口そうに、苦笑しているくらいのところであろう。私は、被害妄想狂では無いのである。決して、ことさらに、僻《ひが》んで考えているのでは無いのである。事実は、或いは、もっと苛酷な状態であるかも知れない。同じ芸術家仲間に於いてすら、そうである。謂《い》わんや、ふるさとの人々の炉辺では、辻馬の家の(Dというのは私の筆名であって、辻馬というのが、私の家の名前である。)末弟は、東京でいい恥さらしをしているそうだのう、とただそれだけ、話題に上って、ふっと消え、火を掻《か》き起してお茶を入れかえ、秋祭りの仕度《したく》に就いて話題が移ってゆく、という、そんな状態ではないかと思う。そのような侘びしい状態に在るのも知らず、愚かな貧しい作家が、故郷の新聞社から招待を受け、さっそく出席と返事して、おれも出世したわいと、ほくそ笑んでいる図はあわれでないか。何が出世だ。衣錦之栄も、へったくれも無い。私の場合は、まさしく、馬子《まご》の衣裳というものである。物笑いのたねである。それ等のことに気がついた時には、私は恥ずかしさのあまりに、きりきり舞いをしたのである。しまった! と思った。やっぱり、欠席、とすべきであったのである。いやいや、出席でも欠席でも、とにかく返事を出すということが、すでに
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