で居るのである。病気がなおって、四年このかた、私の思いは一つであって、いよいよ熾烈《しれつ》になるばかりであったのである。私も、所詮は心の隅で、衣錦還郷というものを思っていたのだ。私は、ふるさとを愛している。私は、ふるさとの人、すべてを愛している!
招待の日が来た。その日は、朝から大雨であった。けれども私は、出席するつもりなのである。私は、袴を持っている。かなり、いい袴である。紬《つむぎ》なのである。これは、私の結婚式の時に用いただけで、家内は、ものものしく油紙に包んで行李《こうり》の底に蔵している。家内は之を仙台平《せんだいひら》だと思っている。結婚式の時にはいていたのだから仙台平というものに違い無いと、独断している様子なのである。けれども、私は貧しくて、とても仙台平など用意できない状態だったので、結婚式の時にも、この紬の袴で間に合せて置いたのである。それを家内が、どういうものだか、仙台平だとばかり思っている様子だから、今更、その幻想をぶち壊すのも気の毒で、私は、未だにその実相を言えないで居るのである。その袴を、はいて行きたかった。私にとって、せめて錦衣のつもりなのであった。
「おい、あの、いい袴を出してくれ。」流石《さすが》に、仙台平を、とは言えなかった。
「仙台平を? およしなさい。紺絣《こんがすり》の着物に仙台平は、へんです。」家内は、反対した。私には、よそゆきの単衣《ひとえ》としては、紺絣のもの一枚しかないのである。夏羽織が一枚あった筈であるが、いつの間にやら無くなった。
「へんな事は無い。出しなさい。」仙台平なんかじゃないんだ、と真相をぶちまけようかと思ったが怺《こら》えた。
「滑稽じゃないかしら。」
「かまわない。はいて行きたいのだ。」
「だめですよ。」家内は、頑固であった。その仙台平なるものの思い出を大事にして、無闇《むやみ》に外に出して粗末にされたくないエゴイズムも在るようだ。「セルのが、あります。」
「あれは、いけない。あれをはいて歩くと、僕は活動の弁士みたいに見える。もう、よごれて、用いられない。」
「けさ、アイロンを掛けて置きましたの。紺絣には、あのほうが似合うでしょう。」
家内には、私のその時の思いつめた意気込みの程が、わからない。よく説明してやろうかと思ったが、面倒臭かった。
「仙台平、」と、とうとう私まで嘘をついて、「仙台平のほうが
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