すことができないのか。言葉より他になかったとしたなら、この全体主義哲学は、その認識論に於いて、たいへん苦労をしなければなるまい。だいいち、全体主義そのものを、どんな様式で説明したらいちばんよいか。やはり、いままでの思想体系の説明と同じように、煩瑣《はんさ》をいとわず逐条説明とするか。それでは、せっかくのゲシュタルトも、なんにもなるまい。案外、こんなところに全体主義の困惑があるのではないか。
さあ、なんと言っていいか。わからないかねえ。あれなんだがねえ。あれだよ。わからないかねえ。なんといっていいのか。ちょっと僕にも、などと、ひとりで弱っている姿を見ると、聞き手のほうでも、いい加減じれったくなって来る。近衛公が議会で、日本主義というのは、なんですか? と問われて、さあ、それは、一口でこうと説明は、どうも、その、と大いに弱っていたようであったが、むりもないことと思った。
象徴で行け。象徴で。
そうなったら面白い。
「日本主義とはなんでありますか?」
「柿です。」この柿には意味がない。
「柿ですか。それは、おどろいた。せめて、窓ぐらいにしてもらいたい。」
まさか、こんなばかげた問答は
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