家の者に聞いた。あれは、なんだ、なんの歌だ。家の者は笑って答えた。蝙蝠《こうもり》の歌でしょう。鳥獣合戦のときの唱歌でしょう。「そうかね。ひどい歌だね。」「そうでしょうか。」と何も知らずに笑っている。
 その歌が、いま思い出された。私は、弱行の男である。私は、御機嫌買いである。私は、鳥でもない。けものでもない。そうして、人でもない。きょうは、十一月十三日である。四年まえのこの日に、私は或る不吉な病院から出ることを許された。きょうのように、こんなに寒い日ではなかった。秋晴れの日で、病院の庭には、未だコスモスが咲き残っていた。あのころの事は、これから五、六年経って、もすこし落ちつけるようになったら、たんねんに、ゆっくり書いてみるつもりである。「人間失格」という題にするつもりである。
 あと、もう書きたくなくなった。けれども、私は書かなければならぬ。「新潮」のNさんには、これまでも、いろいろと迷惑をお掛けしている。やぶれかぶれで、こんな言葉が、ふいと浮んだ。「私にも、陋巷《ろうこう》の聖母があった。」
 もとより、痩意地《やせいじ》の言葉である。地上の、どんな女性を描いてみても、あのミケランジェロの聖母とは、似ても似つかぬ。青鷺《あおさぎ》と、ひきがえるくらいの差がある。たとえば、私が荻窪の下宿にいたとき、近くの支那そばやへ、よく行ったものであるが、或る晩、私が黙って支那そばをたべていると、そこの小さい女中が、エプロンの下から、こっそり鶏卵を出して、かちと割って私のたべかけているおそばの上に、ぽとりと落してくれた。私は、みじめな気がして、顔を挙げることが、できなかった。それからは、なるべく、そのおそばやに、行かないことにした。実に、恥ずかしい記憶である。
 また私が、五年まえに盲腸を病んで腹膜へも膿《うみ》がひろがり、手術が少しややこしく、その折に用いた薬品が癖になって、中毒症状を起してしまい、それをなおそうと思って、水上温泉に行き、二、三日は神に祈ってがまんをしたが、苦しさに堪え切れず、水上町の小さい病院に駈け込んで老医師に事情を打ち明け、薬品を一回分だけ、わけてもらったことがある。帰りしなに、丸顔の看護婦さんが、にこにこ笑って、こっそり、もう一回分だけ、薬を手渡してくれた。私は、そのぶんだけのお金を更に支払おうとしたら、看護婦さんは、だまってかぶりを振った。私は早く病気をなおしたいと思った。
 水上でも、病気をなおすことができず、私は、夏のおわり、水上の宿を引きあげた。宿を出て、バスに乗り、振り向くと、娘さんが、少し笑って私を見送り急にぐしゃと泣いた。娘さんは、隣りの宿屋に、病身らしい小学校二、三年生くらいの弟と一緒に湯治《とうじ》しているのである。私の部屋の窓から、その隣りの宿の、娘さんの部屋が見えて、お互い朝夕、顔を見合せていたのであるが、どっちも挨拶したことは無し、知らん振りであった。当時、私は朝から晩まで、借銭申し込みの手紙ばかり書いていた。いまだって、私はちっとも正直では無いが、あのころは半狂乱で、かなしい一時のがれの嘘ばかり言い散らしていた。呼吸して生きていることに疲れて、窓から顔を出すと、隣りの宿の娘さんは、部屋のカアテンを颯《さ》っと癇癖《かんぺき》らしく閉めて、私の視線を切断することさえあった。バスに乗って、ふりむくと、娘さんは隣りの宿の門口に首筋ちぢめて立っていたが、そのときはじめて私に笑いかけ、そのまま泣いた。だんだんお客たち、帰ってしまう。という抽象的な悲しみに、急激に襲われたためだと思う。特に私を選んで泣いたのでは無いと、わかっていながら、それでも、強く私は胸を突かれた。も少し、親しくして置けばよかったと思った。
 これだけのことでも、やはり、「のろけ」という事になるのであろうか。こんなことが、私のとって置きの「のろけ」だとしたなら、私は、ずいぶんみじめな、あわれな、野郎にちがいない。みじんも「のろけ」のつもりでは無いのだ。支那そばやの女中さんから、鶏卵一個を恵まれたからとて、それが、なんの手柄になることか。私は、自身の恥辱を告白しているだけである。私は自身の容貌の可笑《おか》しさも知っている。小さい時から、醜い醜いと言われて育った。不親切で、気がきかない。それに、下品にがぶがぶ大酒を呑む。女に、好かれる筈は無いのである。私には、それをまた、少し自慢にしているようなところも在るのである。私は、女には好かれたくは無いと思っている。あながち、やけくそからでも無いのである。ぶんを知っているのである。好かれるほどの価値が無いと自覚している人が、何かの拍子で好かれたなら、ただ、狼狽《ろうばい》、自身みじめな思いをするだけのことでは無いかと思われる。私が、こんなことを言っても、ほんとうにしない人があるかも知れないけ
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