あ、と言い、そのまま他のテエブルのほうへ行ってしまった。私は卑屈で、しかも吝嗇《けち》であるから、こちらから名乗ってお礼を言う勇気もなく、お酒を一本呑んで、さっさと引き上げた。
 もう、種が無くなった。あとは、捏造《ねつぞう》するばかりである。何も、もう、思い出が無いのである。語ろうとすれば、捏造するより他はない。だんだん、みじめになって来る。
 ひとつ、手紙でも書いて見よう。
「おじさん。サビガリさん。サビシガリさんでも無ければ、サムガリさんでも無いの。サビガリさんが、よく似合う。いつも、小説ばっかり書いているおじさん。けさほどは、お葉書ありがとう。ちょうど朝御飯のとき着きましたので、みんなに読んであげました。そんなに毎日毎日チクチク小説ばっかり書いてらしたら、からだを悪くする。ぜひ、スポオツをなさいます様おすすめ致します。おじさんの様に、いつもドテラ着て家に居る人間には、どうしても運動の明るさと、元気を必要としますから。きょうも、またおじさんを、うんと笑わせてあげます。これから書くことは、もっとおしまいに書くつもりでしたけれど、早くお知らせしたく我慢できなくなっちゃったから、書くわ。いったい、なんでしょう? 何しろ、きょう買って貰ったものですからね。私たちムスメが、それを身につけると、たまらなく海の見える砂丘に立ってみたくなるものです。旅行がしたくなって、たまらなくなるものです。きょう、銀座のローヤルで見つけて、かえりにすぐ身につけて来ましたの。私、歩くのが嬉しくって、楽しくって、自然に眼が足もとへいってしまうのです。もう、おわかりでしょう。靴なのよ。あたし、きょう、靴ばかり歩いているような気がしましたわ。みんなが私の靴を見つめているような、たいへんな、おごりの気持よ。つまらない? おじさんは、なんでもつまらない、つまらないだから困るのです。私も、靴の話は、つまらなく思います。
 それでは、何が、いいでしょう。きょう夕方、お母さんが『女生徒』を読みたいとおっしゃいました。私は、つい、『厭《いや》よ。』って断りました。そして、五分くらい経ってから、『お母さん意地悪ね。だけど、仕方がないわ。困ったわ。』なんて変なことばかり言って、あの本を書斎から持って来てあげましたの。今お母さん読んでいらっしゃるらしいのよ。かまわないわね。お母さんにわるいことなんか、ちっとも書かれ
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