ぜき》の黴菌《ばいきん》が何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には禿頭《とくとう》病の黴菌が何十万、省線の吊皮《つりかわ》には疥癬《かいせん》の虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駈けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」におびやかされていたようなものなのでした。それは、たしかに何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」にも、正確な事でしょう。と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる、とか、或いは、一日に鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」に、自分は、どれだけおびやかされ、ごはんを一粒でも食べ残す度毎に、また鼻をかむ度毎に、山ほどの米、山ほどのパルプを空費するような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな暗い気持になったものですが、しかし、それこそ「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」で、三粒のごはんは集められるものでなく、掛算割算の応用問題としても、まことに原始的で低能なテーマで、電気のついてない暗いお便所の、あの穴に人は何度にいちど片脚を踏みはずして落下させるか、または、省線電車の出入口と、プラットホームの縁《へり》とのあの隙間に、乗客の何人中の何人が足を落とし込むか、そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく、それは如何《いか》にも有り得る事のようでもありながら、お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」として教え込まれ、それを全く現実として受取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつmって来たというわけなのでした。
そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と逢うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。こわいもの見たさ。自分は、毎晩、それでもお店に出て、子供が、実は少しこわがっている小動物などを、かえって強くぎゅっと握ってしまうみたいに、店のお客に向って酔ってつたない芸術論を吹きかけるようにさえなりました。
漫画家。ああ、しかし、自分は、大きな歓楽《よろこび》も、また、大きな悲哀《かなしみ》もない無名の漫画家。いかに大きな悲哀《かなしみ》があとでやって来てもいい、荒っぽい大きな歓楽《よろこび》が欲しいと内心あせってはいても、自分の現在のよろこびたるや、お客とむだ事を言い合い、お客の酒を飲む事だけでした。
京橋へ来て、こういうくだらない生活を既に一年ちかく続け、自分の漫画も、子供相手の雑誌だけでなく、駅売りの粗悪で卑猥《ひわい》な雑誌などにも載るようになり、自分は、上司幾太(情死、生きた)という、ふざけ切った匿名で、汚いはだかの絵など画き、それにたいていルバイヤットの詩句を插入《そうにゅう》しました。
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無駄な御祈りなんか止《よ》せったら
涙を誘うものなんか かなぐりすてろ
まア一杯いこう 好いことばかり思出して
よけいな心づかいなんか忘れっちまいな
不安や恐怖もて人を脅やかす奴輩《やから》は
自《みずから》の作りし大それた罪に怯《おび》え
死にしものの復讐《ふくしゅう》に備えんと
自《みずから》の頭にたえず計いを為《な》す
よべ 酒充ちて我ハートは喜びに充ち
けさ さめて只《ただ》に荒涼
いぶかし 一夜《ひとよ》さの中
様変りたる此《この》気分よ
祟《たた》りなんて思うこと止《や》めてくれ
遠くから響く太鼓のように
何がなしそいつは不安だ
屁《へ》ひったこと迄《まで》一々罪に勘定されたら助からんわい
正義は人生の指針たりとや?
さらば血に塗られたる戦場に
暗殺者の切尖《きっさき》に
何の正義か宿れるや?
いずこに指導原理ありや?
いかなる叡智《えいち》の光ありや?
美《うる》わしくも怖《おそろ》しきは浮世なれ
かよわき人の子は背負切れぬ荷をば負わされ
どうにもできない情慾の種子を植えつけられた許《ばか》りに
善だ悪だ罪だ罰だと呪《のろ》わるるばかり
どうにもできない只まごつくばかり
抑え摧《くだ》く力も意志も授けられぬ許りに
どこをどう彷徨《うろつき》まわってたんだい
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