いけど、かなり好きなほうだ。それじゃ、私はお酒を呑むから、君はビイルにし給え。」今夜は、呑みあかしてもいい、と自身に許可を与えていた。
 幸吉は女中を呼ぼうとして手を拍《う》った。
「君、そこに呼鈴があるじゃないか。」
「あ、そうか。僕の家だったころには、こんなものなかった。」
 ふたり、笑った。
 その夜、私は、かなり酔った。しかも、意外にも悪く酔った。子守唄が、よくなかった。私は酔って唄をうたうなど、絶無のことなのであるが、その夜は、どうしたはずみか、ふと、里《さと》のおみやに何もろた、でんでん太鼓に、などと、でたらめに唄いだして、幸吉も低くそれに和したが、それがいけなかった。どしんと世界中の感傷を、ひとりで脊負《せおわ》せられたような気がして、どうにも、たまらなかった。
「だけど、いいねえ。乳兄弟って、いいものだねえ。血のつながりというものは、少し濃すぎて、べとついて、かなわないところがあるけれど、乳兄弟ってのは、乳のつながりだ。爽やかでいいね。ああ、きょうはよかった。」そんなこと言って、なんとかして当面の切《せつ》なさから逃れたいと努めてみるのだが、なにせ、どうも、乳母のつるが、毎日せっせと針仕事していた、その同じ箇所にあぐらかいて坐って、酒をのんでいるのでは、うまく酔えよう道理が無かった。ふと見ると、すぐ傍に、脊中を丸くして縫いものしているつるが、ちゃんと坐って居るようで、とても、のんびり落ちついて、幸吉と語れなかった。ひとりで、がぶがぶ酒のんで、そのうちに、幸吉を相手にして、矢鱈《やたら》に難題を吹っかけた。弱い者いじめを、はじめたのである。
「ね、さっきも言うように、君は私に逢って、さぞや、がっかりなさったことでしょうねえ。いや、わかっている。弁解は、聞きたくない。私が大学の先生くらいになっていたら、君は、もっと早く、私の東京の家を捜し出して、そうして、君は、君の妹さんと二人で、私を訪ねて来た筈だ。いや、弁解は聞きたくないね。ところが私は、いま、これときまった家さえ無い、どうも自分ながら意気地のない作家だ。ちっとも有名でない。私には、青木大蔵という名前のほかに、もうひとつ、小説を書くときにだけ使っている、へんな名前がある。あるけれども、それは言わない。言ったって、どうせ君たちは、知りやしない。いちどだって、聞いたこともないような、へんな名前である。言うだけ、損だ。けれども、君、軽蔑《けいべつ》しちゃいかんよ。世の中には、私たちみたいな種類の人間も、たしかに、必要なんだ。なくては、かなわぬ、重要な歯車の、一つだ。私は、それを信じている。だから、苦しくても、こうして頑張って生きている。死ぬもんか。自愛。人間これを忘れてはいかん。結局、たよるものは、この気持ひとつだ。いまに、私だって、偉くなるさ。なんだ、こんな家の一つや二つ。立派に買いもどしてみせる。しょげるな、しょげるな。自愛。これを忘れてさえいなけれあ、大丈夫だ。」言いながら、やりきれなくなった。「しょげちゃいけない。いいか、君のお父さんと、それから、君のお母さんと、おふたりが力を合せて、この家を建設した。それから、運がわるく、また、この家を手放した。けれども、私が、もし君のお父さん、お母さんだったら、べつに、それを悲しまないね。子供が、二人とも、立派に成長して、よその人にも、うしろ指一本さされず、爽快に、その日その日を送って、こんなに嬉しいことないじゃないか。大勝利だ。ヴィクトリイだ。なんだい、こんな家の一つや二つ。恋着しちゃいけない。投げ捨てよ、過去の森。自愛だ。私がついている。泣くやつがあるか。」泣いているのは私であった。
 それからは、めちゃめちゃだった。何を言ったか、どんなことをしたか、私は、ほとんど覚えていない。いちど御不浄に立った。幸吉が案内した。
「どこでも知っていやがる。」
「母は、御不浄を一ばん綺麗にお掃除していました。」幸吉は笑いながら、そう答えた。
 そのことと、もう一つ。酔いつぶれて、そのまま寝ころんでいると、枕もとで、
「萩野さんは、とても似ているというんだけど。」少女の声である。妹がやって来たんだなと思ったゆえ、私は寝ながら、
「そうだ、そうだ。幸吉さんは、私とは他人だ。血のつながりなんか、無いんだ。乳のつながりだけなんだ。似ていて、たまるか。」そう言って、わざと大きく寝がえり打って、「私みたいな酒呑みは、だめだ。」
「そんなことない。」無邪気な少女の、懸命な声である。「私たち、うれしいのよ。しっかり、やって下さい、ね。あんまり、お酒のんじゃいけない。」
 きつい語調が、乳母のつるの語調に、そっくりだったので、私は薄目《うすめ》あけて枕もとの少女をそっと見上げた。きちんと坐っていた。私の顔をじっと見ていたので、私の酔眼と、ちらと視線が合って、少女は、微笑した。夢のように、美しかった。お嫁に行く、あの夜のつるに酷似していたのである。それまでの、けわしい泥酔が、涼しくほどけていって、私は、たいへん安心して、そうして、また、眠ってしまったらしい。ずいぶん酔っていたのである。御不浄に立ったときのことと、それから、少女の微笑と、二つだけ、それだけは、あとになっても、はっきり思い出すことができるのだけれど、そのほかのことは、さっぱり覚えていないのである。
 半分、眠りながら、私は自動車に乗せられ、幸吉兄妹も、私の右と左に乗ったようだ。途中、ぎゃあぎゃあ怪しい鳥の鳴き声を聞いて、
「あれは、なんだ。」
「鷺《さぎ》です。」
 そんな会話をしたのを、ぼんやり覚えている。山峡のまちに居るのだな、と酔っていながらも旅愁を感じた。
 宿に送りとどけられ、幸吉兄妹に蒲団までひいてもらったのだろう、私は翌る日の正午ちかくまで、投げ捨てられた鱈のように、だらしなく眠った。
「郵便屋さんですよ。玄関まで。」宿の女中に、そう言われて起された。
「書留ですか?」私は、少し寝呆《ねぼ》けていた。
「いいえ、」女中も笑っていた。「ちょっと、お目にかかりたいんですって。」
 やっと思い出した。きのう一日のことが、つぎつぎに思い出されて、それでも、なんだか、はじめから終りまで全部、夢のようで、どうしても、事実この世に起ったできごととは思われず、鼻翼の油を手のひらで拭いとりながら、玄関に出てみた。きのうの郵便屋さんが立っている。やっぱり、可愛い顔をして、にこにこ笑いながら、
「や、まだおやすみだったのですね。ゆうべは、酔ったんですってね。なんとも、ありませんか?」ひどく、馴れ馴れしい口調である。
 いや、なんともありません、と私は流石《さすが》にてれくさく、嗄《しわが》れた声で不気嫌に答えた。
「これ、幸吉さんの妹さんから。」百合《ゆり》の花束を差し出した。
「なんですか、それは。」私は、その三、四輪の白い花を、ぼんやり眺めて、そうして大きいあくびが出た。
「ゆうべ、あなたが、そう言ったそうじゃないですか。なんにも世話なんか、要らない。部屋に飾る花が一つあれば、それでたくさんだって。」
「そうかなあ。そんなこと言ったかなあ。」私は、とにかく花を受け取り、「いや、どうも、ありがとう。幸吉さんと、妹さんにも、そう言って下さい。ゆうべは、ほんとうに失礼しました。いつもは、あんなじゃないのですから、こわがらないで、どんどん宿へ遊びに来て下さいって。」
「でも、言っていましたよ。仕事の邪魔になるから、宿へ来るなって言われたので、そのうちお仕事がすんでから、みんなで御岳《みたけ》へ遊びに行くんだ、とそう言っていましたよ。」
「そうか。そんな、ばかなこと私が言ったのかねえ。仕事のほうは、どうにでも都合がつくのだから、御岳へでも、どこへでも、きっと一緒に行きます、とそう言って下さい。私は、いつでもいいんです。早いほどいいなあ。二、三日中に行きたいなあ。どうでも、そこは、あなたたちの都合のいいように、とそう言って下さい。私は、ほんとうに、いつでもいいのですからね。」むきになっていた。
「承知しました。僕も一緒に行くんです。これからも、よろしく。」へんな、どぎまぎした挨拶だったので、私は、郵便屋さんの顔を見直した。まっかになっている。
 私は、ちょっと考えて、すぐわかった。この郵便屋さんと、あの少女とでは、きっと、つつましく、うまく行くだろうと思った。少し侘《わ》びしく、戸惑いした私の感情も、すぐにその場で、きれいに整理できた。それは、それで、いいのだと思った。
 百合の花は、何かあり合せの花瓶に活けて部屋に持って来るよう女中に言いつけて、私は、私の部屋へかえって机のまえに坐ってみた。いい仕事をしなければいけないと思った。いい弟と、いい妹の陰ながらの声援が、脊中に涼しく感ぜられ、あいつらの為《ため》にだけでも、も少しどうにか、偉くなりたいものだと思った。ふと傍に眼を転ずると、私のゆうべ着て出た着物が、きちんと畳まれて枕もとに置かれて在る。私の新しい小さい妹が、ゆうべ私に脱がせて畳んでいって呉れたものに違いない。
 それから二日目に、火事である。私は、まだ仕事で、起きていた。夜中の二時すぎに、けたたましく半鐘が鳴って、あまりにその打ちかたが烈しいので、私は立って硝子《ガラス》障子をあけて見た。炎々と燃えている。宿からは、よほど離れている。けれども、今夜は全くの無風なので、焔《ほのお》は思うさま伸び伸びと天に舞いあがり立ちのぼり、めらめら燃える焔のけはいが、ここまではっきり聞えるようで、ふるえるほどに壮観であった。ふと見ると、月夜で、富士がほのかに見えて、気のせいか、富士も焔に照らされて薄紅色になっている。四辺の山々の姿も、やはりなんだか汗ばんで、紅潮しているように見えるのである。甲府の火事は、沼の底の大焚火《おおたきび》だ。ぼんやり眺めているうちに、柳町、先夜の望富閣を思い出した。近い。たしかにあの辺だ。私はすぐさま、どてらに羽織をひっかけ、毛糸の襟巻《えりまき》ぐるぐる首にまいて、表に飛び出した。甲府駅のまえまで、十五、六丁を一気に走ったら、もう、流石にぶったおれそうになった。電柱に抱きつくようにして寄りかかり、ぜいぜい咽喉《のど》を鳴らしながら一休みしていると、果して、私のまえをどんどん走ってゆく人たちは、口々に、柳町、望富閣、と叫び合っているのである。私は、かえって落ちついた。こんどは、ゆっくり歩いて、県庁のまえまで行くと、人々がお城へ行こう、お城へ行こうと囁《ささや》き合っているのを聞いたので、なるほどお城にのぼったら、火事がはっきり、手にとるように見えるにちがいないと私もそれに気がついて、人々のあとについて行き、舞鶴城跡の石の段々を、多少ぶるぶる震えながらのぼっていって、やっと石垣の上の広場にたどりつき、見ると、すぐ真下に、火事が轟々《ごうごう》凄惨《せいさん》の音をたてて燃えていた。噴火口を見下す心地である。気のせいか、私の眉にさえ熱さを感じた。私は、たちまちがたがた震える。火事を見ると、どうしたわけか、こんなに全身がたがた震えるのが、私の幼少のころからの悪癖である。歯の根も合わぬ、というのは、まさしく的確の実感であった。
 とんと肩をたたかれた。振りむくと、うしろに、幸吉兄妹が微笑して立っている。
「あ、焼けたね。」私は、舌がもつれて、はっきり、うまく言えなかった。
「ええ、焼ける家だったのですね。父も、母も、仕合せでしたね。」焔の光を受けて並んで立っている幸吉兄妹の姿は、どこか凛《りん》として美しかった。「あ、裏二階のほうにも火がまわっちゃったらしいな。全焼ですね。」幸吉は、ひとりでそう呟いて、微笑した。たしかに、単純に、「微笑」であった。つくづく私は、この十年来、感傷に焼けただれてしまっている私自身の腹綿の愚かさを、恥ずかしく思った。叡智《えいち》を忘れた私のきょうまでの盲目の激情を、醜悪にさえ感じた。
 けだものの咆哮《ほうこう》の声が、間断なく聞える。
「なんだろう。」私は先刻から不審であった。
「すぐ裏に、公園の動物園があるのよ。」妹が教えてくれた。「ライオ
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