ないのである。それから、また十年、つるは私の遠い思い出の奥で小さく、けれども決して消えずに尊く光ってはいるのだが、その姿は純粋に思い出の中で完成され固定されてしまっているので、まさか、いまのこの現実の生活と、つながるなどとは、思いも及ばぬことであった。
「つるは、甲府にいたのですか?」私は、それさえ知らなかった。
「え、父がこの土地で、店をひらいて居りました。」
「甲斐絹問屋につとめて居られた、――」つるの亭主が、甲斐絹問屋の番頭だったことは、私も、まえに家の人たちから聞いたことがあるので、それは、忘れずに知っていた。
「え、谷村《やむら》の丸三《まるさん》という店に奉公して居りましたが、のちに、独立して、甲府で呉服屋をはじめました。」
言いかたが、生きている人のことを語っているようでも無いので、
「お達者ですか。」
「は、なくなりました。」はっきり答えて、それから少し寂しそうにして、笑った。
「それじゃ、御両親とも。」
「そうなんです。」幸吉さんは、淡々としていた。「母が死んだのは、ごぞんじなんですね。」
「知っています。私が、高等学校へはいったとしに、聞きました。」
「十二年まえです。僕が十三で、ちょうど小学校を卒業したとしでした。それから五年経って、僕が中学校を卒業する直前に、父は狂《くる》い死《じに》しました。母が死んでから、もう、元気がないようでしたが、それから、すこし、まあ遊びはじめたのでしょうね、店は可成《かなり》大きかったのですが、衰運の一途でした。あのときは全国的に呉服屋が、いけないようでした。いろいろ苦しいこともあったのでしょう。いけない死にかたをしました、井戸に飛びこみました。世間には、心臓|痲痺《まひ》ということにしてありますけれど。」
わるびれる様子もなく、そうかといって、露悪症みたいな、荒《すさ》んだやけくその言いかたでもなく、無心に事実を簡潔に述べている態度である。私は、かれの言葉に、爽快《そうかい》なものを感じたほどなのであるが、けれども、ひとの家の細いことにまで触れるのは、私は不安で、いやだから、すぐに話題をそらした。
「つるは、いくつでなくなったのですか?」
「母ですか。母は、三十六でなくなりました。立派な母でした。死ぬる直前まで、あなたの名前を言っていました。」
そうして、会話がとぎれてしまった。私が黙っていると、青年も黙って落ちついている。私が、いつまでも言葉を見つけ得ずに、かなわない気持でいたら、
「出ませんか。おいそがしいですか。」と言って、私を救って呉れた。
私も、ほっとして、
「ああ、出ましょう。一緒に、晩御飯でも、たべますか。」さっそく立ち上って、「雨も、はれたようですね。」
ふたり、そろって宿を出た。
青年は、笑いながら、
「今夜はね、計画があるのですよ。」
「ああ、そうですか。」私には、もう、なんの不安もなかった。
「だまって、つき合って下さい。」
「承知しました。どこへでも行きます。」仕事を、全部犠牲にしても、悔いることは無いと思っていた。
歩きながら、
「でも、よく逢えたねえ。」
「ええ、お名前は、まえから母に朝夕、聞かされて、失礼ですが、ほんとうの兄のような気がして、いつかはお逢いできるだろう、と奇妙に楽観していたのです。へんですね、いつかは逢えると確信していたので、僕は、のんきでしたよ。僕さえ丈夫で生きていたら。」
ふと、私は、目蓋《まぶた》の熱いのを意識した。こんなに陰で私を待っていた人もあったのだ。生きていて、よかった、と思った。
「私が十歳くらいで、君が三つか四つくらいのとき、いちど逢ったことがあるんじゃないかしら。つるが、お盆のとき、小さい、色の白い子を連れて来て、その子が、たいへん行儀がよく、おとなしいので、私は、ちょっとその子を嫉妬《しっと》したものだが、あれが君だったのかしら。」
「僕、かも知れません。よく覚えていないのです。大きくなってから、母にそう言われて、ぼんやり思い出せるような気がしました。なんでも、永い旅でした。お家のまえに、きれいな川が流れていました。」
「川じゃないよ。あれは溝《みぞ》だ。庭の池の水があふれて、あそこへ流れて来ているのだ。」
「そうですか。それから、大きな、さるすべりの木が、お家のまえに在りました。まっかな花が、たくさん咲いていました。」
「さるすべりじゃないだろう。ねむ、の木なら、一本あるよ。それも、そんなに大きくない。君は、そのころ小さかったから、溝でも、木でも、なんでも大きく大きく見えたのだろう。」
「そうかも知れませんね。」幸吉は、素直にうなずいて、笑っている。「そのほかのことは、ちっとも、なんにも、覚えていません。あなたのお顔ぐらいは、覚えて置いても、よかったのに。」
「三つか、四つのころでは、記憶にないのが当りまえさ。けれど、どうだい、はじめて逢った兄なるものは、あんな安宿でごろごろしていて、風采《ふうさい》もぱっとせず、さびしくないか。」
「いいえ。」はっきり否定したが、どこか気まずそうに見えた。さびしいのだ。こういう人が在ると知ったら、私は、せめて中学校の先生くらいにはなっていたのにと、くやしく思った。
「さっきの郵便屋さんは、君のお友達かね。」私は、話題を転じた。
「そうです。」幸吉さんは、ぱっと明るい顔になって、「親友です。萩野君と言います。いい人ですよ。あの人は、こんどは手柄をたてました。まえから僕が、あの人に、あなたのことを言ってあかして居りましたので、あの人も、あなたのお名前を知ってしまって、そうして、たびたび、あなたのところへ郵便配達しているうちに、ふと、このひとじゃないかと思ったのだそうです。五、六日まえ、僕のところへ来て、そんなことを言いますから、僕もわくわくして、どんな人か、と聞きましたら、ただ宿へ郵便を投げこむだけなのだから、顔は見たことがない、と言います。それなら、こんどは様子を、それとなく内偵してみてくれ、もし人ちがいだと、醜態だから、と妹まで一緒になって、大騒ぎでした。」
「妹さんも、あるのですか。」私のよろこびは、いよいよ高い。
「ええ、私と四つちがうのですから、二十一です。」
「すると、君は、」私は、急に頬がほてって来たので、あわてて別なことを言った。「二十五ですね。私とは、六つちがうわけだ。どこかへ、おつとめですか。」
「そこのデパアトです。」
眼をあげると、大丸《だいまる》デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。甲府で一ばん賑《にぎ》やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。東京の道玄坂を小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》したような街である。路《みち》の両側をぞろぞろ流れて通る人たちも、のんきそうで、そうして、どこかハイカラである。植木の露店には、もう躑躅《つつじ》が出ている。
デパアトに沿って右に曲折すると、柳町である。ここは、ひっそりしている。けれども両側の家家は、すべて黒ずんだ老舗《しにせ》である。甲府では、最も品格の高い街であろう。
「デパアトは、いまいそがしいでしょう。景気がいいのだそうですね。」
「とても、たいへんです。こないだも、一日仕入が早かったばかりに、三万円ちかく、もうけました。」
「永いこと、おつとめなのですか?」
「中学校を卒業して、すぐです。家がなくなったもので、皆に同情されて、父の知り合いの人たちのお世話もあって、あのデパアトの呉服部にはいることができたのです。皆さん親切です。妹も、一階につとめているのですよ。」
「偉いですね。」お世辞では、なかった。
「わがままで、だめです。」急に、大人ぶった思案ありげな口調で言ったので、私は、可笑《おか》しかった。
「いいえ、君だって、偉いさ。ちっとも、しょげないで。」
「やるだけのことを、やっているだけです。」少し肩を張って、そう言って、それから立ちどまった。「ここです。」
見ると、やはり黒ずんだ間口《まぐち》十間ほどもある古風の料亭である。
「よすぎる。たかいんじゃないか?」私の財布には、五円紙幣一枚と、それから小銭が二、三円あるだけだった。
「いいのです。かまいません。」幸吉さんは、へんに意気込んでいた。
「たかいぞ、きっと、この家は。」私は、どうも気がすすまないのである。大きい朱色の額《がく》に、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。
「僕も、はじめてなんですが、」幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと考えて気を取り直し、「いいんだ。かまわない。ここでなくちゃいけないんだ。さ、はいりましょう。」
何か、わけがあるらしかった。
「大丈夫かなあ。」私は、幸吉にも、あまり金を使わせたくなかった。
「はじめっから計画していたんです。」幸吉は、きっぱりした語調で言って、それから自身の興奮に気づいて恥ずかしそうに、笑い出し、「今夜は、どこへでも、つき合うって、約束してくれたんじゃないですか。」
そう言われて、私も決心した。
「よし、はいろう。」たいへんな決意である。
その料亭にはいって、幸吉は、はじめてここへ来たひとのようでも無かった。
「表二階の八畳がいい。」
案内の女中に、そんなことを言っていた。
「やあ、階段もひろくしたんだね。」
なつかしそうに、きょろきょろ、あたりを見廻している。
「なんだ、はじめてでも、なさそうじゃないか。」私が小声でそう言うと、
「いいえ、はじめてなんです。」そう答えながら、「八畳は、暗くてだめかな? 十畳のほうは、あいていますか?」などと、女中にしきりに尋ねている。
表二階の十畳間にとおされた。いい座敷だ。欄間も、壁も、襖《ふすま》も、古く、どっしりして、安普請《やすぶしん》では無い。
「ここは、ちっとも、かわらんな。」幸吉は、私と卓を挾《はさ》んで坐ってから、天井を見上げたり、ふりかえって欄間を眺めたり、そわそわしながら、そんなことを呟いて、「おや、床の間が少し、ちがったかな?」
それから私の顔を、まっすぐに見て、にこにこ笑い、
「ここは、ね、僕の家だったのです。いつか、いちどは来てみたいと思っていたのですが。」
そう聞いて、私も急に興奮した。
「あ、そうか。どうりで家のつくりが、料理屋らしくないと思った。あ、そうか。」私も、あらためて部屋を見まわした。
「この部屋には、ね、店の品物が、たくさん積みこまれて、僕たちは、その反物《たんもの》で山をこさえたり、谷をこさえたりして、それに登って遊んだものです。ここは、こんなに日当りがいいでしょう? だもんだから、母は、ちょうどあなたのお坐りになっていらっしゃるその辺に坐って、よく仕立物をしていました。十年もむかしのことですが、この部屋へ来てみると、やっぱし昔のことが、いちいちはっきり思い出されます。」静かに立って、おもて通りに面した、明るい障子を細くあけてみて、
「ああ、むかい側もおんなじだ。久留島さんだ。そのおとなりが、糸屋さん。そのまた隣が、秤《はか》り屋さん。ちっとも変っていないんだなあ。や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、
「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」
私は、先刻から、たまらなかった。
「ね、かえろうよ。いけないよ。ここでは酒も呑めないよ。もうわかったから、かえりましょう。」不気嫌にさえなっていた。「わるい計画だったね。」
「いいえ、感傷なんか無いんです。」障子を閉めて、卓の傍へ来て横坐りに坐って、「もう、どうせ、他人の家です。でも、久しぶりに来て見ると、何でもかんでも珍らしく、僕は、うれしいのです。」嘘でなく、しんから楽しそうに微笑しているのである。
ちっとも、こだわっていないその態度に、私は唸《うな》るほど感心した。
「お酒、呑みますか? 僕は、ビイルだと少しは、呑めるのですけれど。」
「日本酒は、だめか?」私も、ここで呑むことに腹をきめた。
「好きじゃないんです。父は酒乱。」そう言って、可愛く笑った。
「私は酒乱じゃな
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