新樹の言葉
太宰治

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)掻乾《かいぼし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一升|瓶《びん》
−−

 甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を掻乾《かいぼし》して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾《かいぼし》しなければならぬ。
 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢《すりばち》の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒《さか》さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
 早春のころに、私はここで、しばらく仕事をしていたことがある。雨の降る日に、傘もささずに銭湯へ出かけた。銭湯は、すぐ近いのである。途中、雨合羽着た郵便屋さんと、ふと顔を見合せ、
「あ、ちょいと。」郵便屋が、小声で私を呼びとめたのである。
 私は、驚かなかった。何か、私あての郵便が来たのだろうと思って、にこりともせず、だまって郵便屋へ手を差し出した。
「いいえ、きょうは、郵便来ていません。」そう言って微笑《ほほえ》む郵便屋の鼻の先には、雨のしずくが光っていた。二十二、三の頬の赤い青年である。可愛い顔をしていた。
「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」
「ええ、そうです。」青木大蔵というのは、私の、本来の戸籍名である。
「似ています。」
「なんですか。」私は、少し、まごついた。
 郵便屋は、にこにこ笑っている。雨に濡れながら二人、路上でむき合って立ったまま、しばらく黙っている。へんなものだった。
「幸吉さんを知っていますか。」いやに、なれなれしく、幾分からかうような口調で、そんなこと言い出した。「内藤幸吉さんを。ご存じでしょう?」
「内藤、幸吉、ですか?」
「ええ、そうです。」郵便屋は、もう私が知っていることにきめてしまったらしく、自信たっぷりで首肯する。
 私は、なお少し考えて、
「存じませんね。」
「そうですか。」こんどは郵便屋もまじめに首をかしげて、「あなたは、おくには、津軽のほうでしょう?」
 とにかく雨にこんなに濡れては、かなわないので、私は、そっと豆腐屋の軒下に難を避けて、
「こちらへいらっしゃい。雨が、ひどくなりました。」
「ええ。」と素直に、私と並んで豆腐屋の軒下に雨宿りして、「津軽でしょう?」
「そうです。」自分でも、はっと思ったほど、私は不気嫌な答えかたをしてしまった。片言半句でも、ふるさとのことに触《ふ》れられると、私は、したたか、しょげるのである。痛いのである。
「それじゃ、たしかだ。」郵便屋は、桃の花の頬に、靨《えくぼ》を浮べて笑った。「あなたは幸吉さんの兄さんです。」
 私は、なぜか、どきっとした。いやな気がした。
「へんなことを、おっしゃいますね。」
「いいえ、もう、それに違いないのです。」ひとりで、はしゃいで、「似ていますよ。幸吉さん、よろこぶだろうなあ。」
 つばめのように、ひらと身軽に雨の街路に躍り出て、
「それじゃ、あとでまた。」少し走って、また振りかえり、「すぐに幸吉さんに知らせてあげますから、ね。」
 ひとり豆腐屋の軒下に、置き残され、私は夢みるようであった。白日夢。そんな気がした。ひどくリアリティがない。ばかげた話である。とにかく、銭湯まで一走り。湯槽《ゆぶね》に、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみると、不愉快になって来た。どうにも、むかむかするのである。私が、おとなしく昼寝をしていて、なんにもしないのに、蜂《はち》が一匹、飛んで来て、私の頬を刺して、行った。そんな感じだ。全くの災難である。東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ災難である。なんとも知れぬ人物が、ぞろぞろ目前にあらわれて、私に笑いかけ、話しかけ、私はそのお化けたちに包囲され、なんと挨拶の仕様もなく、ただうろうろしている図は、想像してさえ不愉快である。仕事も何も、あったものじゃない。いい加減に私を掻《か》きまわして、いや、どうも、人ちがいでした、と言って引きあげて
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング