がいなくなった。夢見ごこちで覚えている。唇が、ひやと冷く、目をさますと、つるが、枕もとに、しゃんと坐っていた。ランプは、ほの暗く、けれどもつるは、光るように美しく白く着飾って、まるでよそのひとのように冷く坐っていた。
「起きないか。」小声で、そう言った。
 私は起きたいと努力してみたが、眠くて、どうにも、だめなのである。つるは、そっと立って部屋を出ていった。翌《あく》る朝、起きてみて、つるが家にいなくなっているのを知って、つるいない、つるいない、とずいぶん苦しく泣きころげた。子供心ながらも、ずたずた断腸の思いであったのである。あのとき、つるの言葉のままに起きてやったら、どんなことがあったか、それを思うと、いまでも私は、悲しく、くやしい。つるは、遠い、他国に嫁いだ。そのことは、ずっと、あとで聞いた。
 私が小学校二、三年のころ、お盆のときに、つるが、私の家へ、いちど来た。すっかり他人になっていた。色の白い、小さい男の子を連れて来ていた。台所の炉傍《ろばた》に、その男の子とふたり並んで坐って、お客さんのように澄ましていた。私にむかっても、うやうやしくお辞儀をして、実によそよそしかった。祖母が自慢げに、私の学校の成績を、つるに教えて、私は、思わずにやにやしたら、つるは、私に正面むいて、
「田舎では一番でも、よそには、もっとできる子がたくさんいます。」と教えた。
 私は、はっとなった。
 それきり、つるを見ない。年月を経るにしたがい、つるに就いての記憶も薄れて、私が高等学校にはいったとし、夏休みに帰郷して、つるが死んだことを家のひとたちから聞かされたけれど、別段、泣きもしなかった。つるの亭主は、甲州の甲斐絹《かいき》問屋の番頭で、いちど妻に死なれ、子供もなかったし、そのまま、かなりのとしまで独身でいて、年に一度ずつ、私のふるさとのほうへ商用で出張して来て、そのうちに、世話する人があって、つるを娶《めと》った。そのような事実も、そのとき聞いて、はじめて知ったくらいのもので、家の人たちさえ、それ以上のことは、あまり深く知らない様子であった。十年はなれていたので、つるが死んでも生きても、私の実感として残っているのは、懸命の育ての親だった若いつるだけで、それを懐しむ心はあっても、その他のつるは、全く他人で、つるが死んだと聞かされても、私は、あ、そうかと思っただけで、さして激動は受けないのである。それから、また十年、つるは私の遠い思い出の奥で小さく、けれども決して消えずに尊く光ってはいるのだが、その姿は純粋に思い出の中で完成され固定されてしまっているので、まさか、いまのこの現実の生活と、つながるなどとは、思いも及ばぬことであった。
「つるは、甲府にいたのですか?」私は、それさえ知らなかった。
「え、父がこの土地で、店をひらいて居りました。」
「甲斐絹問屋につとめて居られた、――」つるの亭主が、甲斐絹問屋の番頭だったことは、私も、まえに家の人たちから聞いたことがあるので、それは、忘れずに知っていた。
「え、谷村《やむら》の丸三《まるさん》という店に奉公して居りましたが、のちに、独立して、甲府で呉服屋をはじめました。」
 言いかたが、生きている人のことを語っているようでも無いので、
「お達者ですか。」
「は、なくなりました。」はっきり答えて、それから少し寂しそうにして、笑った。
「それじゃ、御両親とも。」
「そうなんです。」幸吉さんは、淡々としていた。「母が死んだのは、ごぞんじなんですね。」
「知っています。私が、高等学校へはいったとしに、聞きました。」
「十二年まえです。僕が十三で、ちょうど小学校を卒業したとしでした。それから五年経って、僕が中学校を卒業する直前に、父は狂《くる》い死《じに》しました。母が死んでから、もう、元気がないようでしたが、それから、すこし、まあ遊びはじめたのでしょうね、店は可成《かなり》大きかったのですが、衰運の一途でした。あのときは全国的に呉服屋が、いけないようでした。いろいろ苦しいこともあったのでしょう。いけない死にかたをしました、井戸に飛びこみました。世間には、心臓|痲痺《まひ》ということにしてありますけれど。」
 わるびれる様子もなく、そうかといって、露悪症みたいな、荒《すさ》んだやけくその言いかたでもなく、無心に事実を簡潔に述べている態度である。私は、かれの言葉に、爽快《そうかい》なものを感じたほどなのであるが、けれども、ひとの家の細いことにまで触れるのは、私は不安で、いやだから、すぐに話題をそらした。
「つるは、いくつでなくなったのですか?」
「母ですか。母は、三十六でなくなりました。立派な母でした。死ぬる直前まで、あなたの名前を言っていました。」
 そうして、会話がとぎれてしまった。私が黙っていると、青年も黙
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